嘘つきな君
だけど、心のどこかでもう1人の私が揺れる心を自制する。

『人魚姫』には、なりたくないと唇を噛んだ。


「――…常務になんて頼れないですよ」

「今更何遠慮してんの?」

「遠慮なんて……」

「常務だと思った事もないくせに」

「そんな事っ」

「あと、もう少し食え。痩せすぎ」


そう言って、今まで前を向いていた視線を突然私の方に向けた彼。

すると、見つからない様に彼を見上げていた私とバッチリ目が合った。

反射的に慌てて目を背けた私に、彼は息の下で小さく笑った。


「お前、頑張りすぎ」

「――」

「もっと楽にしてろ」


耳に響く、その声。

まるで私の何もかも分かっている様な口ぶり。


全部バレていた。

彼の前では、何もかも。


彼の言う通り、私はここ最近我武者羅になっていた。

秘書の仕事が決まってから、私は必死に仕事を憶えた。

取引先や重役の名前を片っ端から覚えたり、それに付随した知識も頭に叩き込んだ。

彼が仕事しやすいように、何から何までやった。

全ては、彼に認めてもらいたくて。


そんな私の行動を、きっと常務は分かっていた。

その頑張りをバレない様にしていたつもりなのに。

でも、それって……。

私の事を見ていてくれているって事――?


真っ赤に色づく心が、必死に抗ってきた私の抵抗を砕く。

ダメだと分かっているのに、止められない。

私の理性なんて、あっという間に吹き飛んでしまう。

歯車がゆっくりと再び動き出す。


「もっとちゃんと食え。命令だ」


意地悪そうに笑った彼の顔が目に焼きつく。

見上げたままの私に、柔らかい眼差しを送る彼に、何も言い返せない。


まるで麻薬。

抜け出せない、甘い疼きに私は虜になっていた。
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