いちばん、すきなひと。
人の距離なんてあっという間。
月曜日が、来てしまった。

待ち遠しい気持ちもあったが、どうしようという不安もある。

どんな顔をして行けばいいのだろう。

母に、お礼をちゃんと言ってこいと言われた。
それはそうだ。
だけど。

相手は……部長だ。
美術部の人気者。

私なんぞがそうやすやすと
気軽に話しかけられる人じゃないのだ。
本当は。

あの時は、偶然と気が動転してたのもあって
何も考えなかったけれど。
冷静になると、なんて事をしでかしたんだと恥ずかしくなる。

手を繋ぐなんて。
あの、部長と。

イヤでもあれは事件のせいであって、
不可抗力としか言いようが無い。

あの時は誰かにすがっていないと立てなかった。
それだけの恐怖を経験したのだ。
それくらいは許されるだろう。

ただ、それを今日の部活にまで持ち越すのは
どうなんだろう。

そんな、モヤモヤとした気持ちのまま。
美術部の扉を開ける。

「こんにちはー」
「あっ、みやのっちー」
同じ一年の友達が先に来ていた。
部長は……まだのようだ。少しホッとする。

「どこまで進んだ?」
私はすぐそばにある椅子の上に荷物を降ろし、友達の作品を覗く。
「ぜーんぜん。こんなんじゃ今月中に描き上がるかどうか」
「いけるっしょー私も金曜から全然進んでないし。頑張ろうぜー」
グダグダの友達を励ましながら、自分のキャンバスを準備する。
どこまで描いたっけ……あぁそうだここだ。

続きの箇所を思い出し、チューブから絵の具を出す。
キャップが外れた拍子に掴み損ね、手のひらからこぼれ落ちた。
「あっ」

落ちたキャップはコロコロと勢いよく転がり、出入り口のドアに当たり止まった。
「もー……」
拾い上げたちょうどその時、ドアがガラッと音を立てて開いた。
「わっ」
私は驚いて尻餅をつく。

「おっ……と、大丈夫?」
田村部長だった。

恥ずかしい所を見られた。
顔が赤くなる。
必死で冷静を装おうとする自分に気付く。
なんでこんなに必死なんだ私は。

「あっ、すいません大丈夫ですっ」
急いで立ち上がる。
スカートの埃をパンパンと払って、改めて部長の顔を見た。

「何してたの?」
苦笑しながらそう聞かれて、私は手に持ってたキャップを見せる。
「これが転がったので拾おうとしたら部長が……」
「ああ、そうだったんだ。俺も勢いよく開けちゃったしね、ごめんごめん」
そう言って部長は、私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「もう、大丈夫?」
再度そう聞かれて。
今の事なのか、あの日の事なのか分からなかったが。
どっちも同じだろうとまとめて。
「大丈夫です、ホントすいません。それと……ありがとうございました。」
と、軽く頭を下げて言った。
「なら、よかったよ。」
優しくそう言われて、私は部長の顔に見とれてしまった。


線の細い、綺麗な顔。


「みやのっち!キャップ見つかったー?」
友達の声で我に返る。
危ない危ない。トリップしてた。

慌てて席に戻る。
「あったよーどこまで転がるんだろうね全く」
「部長と話す口実できたじゃーん。いいなぁみやのっち」
「あ、見てた?」
ドキリとした。
何か、勘ぐられるだろうか。

「あはは、見てた見てた。みやのっち派手に転んだもんねー」
あれはホント恥ずかしい。
この部屋でよかったと思おう。

野々村の前なんかだと松田と揃ってネタにされるに決まってる。

「部長、かっこいいよねー」
筆を走らせながら、友達が呟く。
「……うん。」

最初は、憧れくらいにしか思ってなかった。
だけどやっぱりあの事件のせいか、妙に気になる。

「あれ、みやのっち……案外マジ?」
私の意外な反応に、周りの友達が興味津々と顔を寄せてくる。
「何よマジって。かっこいいのは認めるよ」
私は素っ気なく答えて、目の前のキャンバスに集中した。





空がオレンジ色になると、周りの部員はキリのいいところで片付けを始める。

まだ続きを描きたい気持ちを引きずりながら、私も筆を置いた。
続きは、明日。

もう一枚、描きたくなった絵がある。
あの、帰り道の風景。夕焼け空の並木道。

その二つの絵のどちらかを、コンクールに出したい。
そのためにはどのくらいのペースで描きあげるのがいいのか……と考えていたら。

「宮野さん、どうしたの?」
ボーッとしていると思われたようだ。
部長が声をかけてきた。

気づけば、周りの友達も他の先輩達も既に帰っていた。

何でもない声と言葉なのに、なぜかとても緊張する。
「え、あっ……もう一枚描きたい絵が浮かんで、どうしたら夏休み中に描けるかなと」

「なるほど。」

部長は頷いて、顎に手を当ててしばらく考える素振りをみせた。
「今は、目の前の絵に集中して描き切ること。気持ちが浮つくと絵にも出るからね。コンクールの締め切りは9月初旬だけど、それに間に合わないようなら……また次に出せばいいから。」

要は、焦るなという事か。

確かに、途中で気が変わると描けなくなる。
熱意が覚めるのだ。
絵も恋も似てるのかな。熱が覚めると続かない。

私は……どうなんだろう。



「そうですね、まずはこの絵を納得行くように描きます!」
とにかく、絵の件は了解した。
部長の言うとおり、変に中途半端なモノにはしたくない。せっかく描くのだから。

部長は私の返事ににっこりと頷き、
「頑張って……あぁそうだ。宮野さんって帰りはいつも一人?」
突然、そんな事を聞いた。

「……?はい。」
私は素直に頷く。

友達は皆、反対方向だ。
中学の同級生に会った時はラッキーと思うくらいで。

部長は少し心配そうに私を覗き込んで
「この間の事もあるし、できるだけ一人は避けたほうがいいんじゃないかな。良ければ俺が送るけど?」

え。

私は目が点になった。
この人は今何と。


「そんな……部長にご迷惑かけるなんて申し訳ないです。大丈夫ですよっ、一人でサクサク帰りますから」
慌てて両手を振って遠慮する。

私なんかに、構わなくていいですよ。

部長はそんな大げさなリアクションの私を見て苦笑しながら、真面目に私の目を見て言った。
「俺は全然、迷惑なんかじゃないよ。じゃ言葉を変えよう……一緒に帰ろうか。」


私の心臓の鼓動は、より大きくなった。
こんな事が、あっていいのでしょうか。



田村部長の家は、聞いた住所からして
私の家と反対方向とまではいかずとも、少し遠回りになる場所にあるようだ。

「友達がこっちだから、よく遠回りして一緒に帰る事もあるしね。そんなに大変な事じゃないよ」
部長は柔らかく、そう話してくれる。

今、あの並木道を二人で歩いている。
緊張する。

足元が、ふわふわする。

この感覚。どこかでーーー


「宮野さんは……中学でも美術部だったの?」
またトリップしそうになった頭を、部長の声が現実に呼び止めた。

素朴な疑問だ。でも少し答え辛い。
「美術部は気になっていたんですけど、違う部に入ってました。」
「そうなんだ、何やってたの?」

ほら、やっぱりそう来る。
別にマイナーでもなんでもないんだけれど、何となく、派手なイメージもないので堂々と言えない。

「……卓球部、です」

あー地味なイメージとか思われたかな。
申し訳なくて顔が見れない。

少し下を見ながら、歩く。

部長は意外にも、好意的な反応を示した。
「へぇ、俺テニス部だったんだよ。ちょっと親近感。」

あぁ、この人テニスも何なくこなしそうです。しかも似合う。

彼は続けた。
「ルールはちょっと違うけどさ、卓球できるならテニスもちょっとできそうじゃん。」

うーん、よく言われますそれ。
私はつい本音で答えてしまう。
「でも基本的に打ち方が違うじゃないですか。私がテニスしたら肘痛めそうですよ」

「そうかーフォームの問題か。でもさ、遊び程度なら楽しめるんじゃない?初心者よりボールの勘とかつかむの早そうだし」
「そんなもんですかね?授業で少し軟式を習った程度なのでよく分からないんですけど」

「軟式と硬式でも打ち方変わるもんね。」

ちょっとした話題でもつい熱く話し込んでしまう。
部長は話が上手だ。私の事をなんなく引き出して、話を広げる。

おかげで、気を使う間も無くあっという間に家に着いてしまった。
「すいません、貴重な時間を……」
家の前で部長に謝る。
私は楽しかったけど、部長はまだこれから家に帰らなければならない。
自分のせいで帰宅が遅くなってしまう事が申し訳ない。

部長は首を横に振って
「いいんだ気にしなくて。宮野さんが無事に帰れるならそれでいいし……それに、こんな時間の使い方もアリだと思うよ。」

「ホント、ありがとうございました」
どうしてこの人はこんなにも優しいのだろう。

「じゃ、また明日。」
部長はそう言って、何事も無かったかのように帰って行った。

その背中を少し、見送る。
途中、振り返って手を振ってくれた。

心が、温かくなる。
でも背中を見るのは寂しい気持ちもあって。

何だろう。

これはホントに、いいのだろうか。
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