いちばん、すきなひと。
夏休みの出来事。
田村部長は、私の目の焦点が合った事を確認して頷いた。
「そうだよ。今の人……知り合いじゃないよね?」
私は無言でコクコクと頷く。
声が、出なかった。

「とにかく……冷やしたほうがいい。家はこの辺?」

冷やす?何処を?
そう思って私はようやく頬の痛みを感じた。
どうやら殴られたらしい。

何故、殴られたのだろう。
怖い。

私はまた、頷く。
「とりあえず家に行こうか。落ち着いて……話はそれからにしよう。」
立てる?と聞かれて。
本当はまだ動きたくない心境だったけど、そうも行かず。

手を借りてゆっくり立ち上がると、お尻が痛かった。
地面のひんやりした感覚が残る。

足が震える。
思うように動かせないでいると、田村部長はそれに気付いたようで
「手、繋ごう……大丈夫、僕がいるから」
そっと手を握ってくれた。

温かい、手。

自分の手の冷え具合が分かる。
手どころか、全身が冷たくなっていた。
夏なのに、寒い。

ゆっくり、私に歩調を合わせて歩いてくれる。

私は何も考える事ができず、ただ手を引かれるままに歩いた。
家の前を通り過ぎそうになり、慌てて部長の手を引っ張る。

「……あ、すっすみません。家、ここです……」
「お家の人は…いるのかな?」
「ちょっと、待っててもらえますか?」

部長の手を、門の前で放す。
手に、体温が戻った。
少し、寂しい気分になった。

玄関のドアを開けようとして、鍵がかかっている事に気付く。
「留守だ……買物にでも出てるのかな……」

どうしようかと振り返って、部長の顔を見る。
「家、誰もいないの?」
「……みたいです。」

部長は少し考えて、私の目を見て言った。
「とりあえず、一緒に警察へ行こう。早いほうがいい。」

警察?

「あの状況はどう考えてもおかしいよ。また同じような事件が起きないとも限らない」

あの時、田村部長がいなかったら。
そう考えるとーーーゾッとする。

「でも……」
親もいないし二人で行って、大丈夫だろうか。
お子様扱いされないだろうか。

そんな私の不安をよそに、田村部長はまた、私の手を引いて歩き出した。
「俺、たまたま友達の家からの帰りに通りかかっただけだから……この辺詳しくないんだけど。警察ってあるのかな?」

鈍い頭で必死に考える。
「あ、ありますっ。この先の道路を渡った所に……西警察署が」
なんとか私の頭はまだ生きていたようだ。
「じゃ、そこ行こう。大丈夫?」
「はい。」
私は頷いて。また引いてもらえる手の温みに少しホッとしながら歩いた。

足の震えも、治まったようだ。
何事もなかったかのように、冷静な自分を取り戻す。
さっきのは何だったんだろう。

警察署に入ると、私たちは受付で事の詳細を話した。
高校生の、しかも男女が警察にーーー
いいイメージはないだろう。
けれど、この際仕方ない。

奥の部屋へどうぞと言われ、二人で入る。

パイプ椅子に座り、向かいに若い警察官の人が座る。
間にテーブルがひとつ。

若い警察官は、私と部長の話を聞きながら書類を記入していく。
犯人と思われる人の特徴までひととおり話し終えると、書類に目を通して。
「なるほど、話はよく分かったよ。まだ近所をウロついてる可能性もあるから気をつけて……ところでご両親は?」
「留守だったけど……母はもう帰ってきてると思います。」
そう言いながら壁の時計を見る。
6時45分ーーーーもうこんな時間だったんだ。

「じゃ、一応迎えに来てもらおうかね」
私は思わず田村部長を見た。どうしていいのか分からなかったのだ。
彼は私を見て頷いた。
「俺の事は気にしなくていいよ。宮野さんが無事でよかった。」

ドキっとした。
その、優しい表情に。

間もなく、母がやって来た。
事情を聞き驚いた様子で部屋に入ってきた。
「麻衣!大丈夫なの?」
「うん、ちょっとほっぺ痛いけど」
警察の人が貸してくれた、冷却用の保冷剤を顔から話して説明する。

「あぁ、何もないならよかったわホント。」
安堵の溜息をついて、母は部長を見る。
「すいません遅くまで付き添っていただいて……娘が助けてもらったみたいで…ありがとう」
「いえ、本当に偶然通りかかったので……大事にいたらなくて本当によかったです。」

「部長、本当にありがとうございました!」
私も母の隣で頭を下げる。
彼は少し困った顔をして
「宮野さんまで……気にしなくていいよ、本当に。部活はまた月曜からだけど、無理しなくていいからね」

警察署を出て、田村部長は一人で帰れるからと言って、その場を離れた。

帰宅が遅くなった事、私がお世話になった事を含めてご両親に連絡させてくれと母が頼み込み、
田村部長の自宅の電話番号を聞いていた。
家に帰ってすぐ、母が連絡を入れる。

受話器を耳に当てたまま、何度も頭を下げていた。

兄は帰宅が遅くなるといい、父も今夜は残業らしい。
母と二人での夕食となった。

「麻衣……本当に何もないの?」
しつこく母が訪ねる。
「ないって、ホントびっくりしたんだから。先輩が偶然通りかかってくれて助かったよ」
「そうね。同じクラブの人なんだって?」
「そう、美術部の部長。」
「あら、凄いじゃない。」
母はすっかり田村部長が気に入ったようだ。

そりゃね、あれだけ落ち着いていたら。
頼もしいって思うよね。

夕食後、洗面所で顔を確認する。
なんとか腫れはひいたようだ。少し赤みがある程度。
これなら大丈夫だろう。

それにしても。
思い出すだけでゾッとする。

あの人は一体、何の為にあんな事したのだろう。
よくある『不審者』ってああいう人の事なんだろうか。
まさか家の近所で遭遇するとは。

そのままお風呂に入り、ずっと考え込んでしまう。

田村部長、冷静で頼もしかった。
怖かったけど、彼のおかげで安心できた。
部長の手。温かくて、大きかった。


あれ、おかしい。
この気持ちは、何だろう。


ああそうだ。これはきっと、非現実的な事に巻き込まれたから
私の頭がどうかしてるんだ。


願わくば、どうか。
もう二度とあんなヤツに合いませんように。
これ以上、事件に巻き込まれたりしませんように。






その夜は、色々ありすぎたせいか寝付けなかった。

ずっと、田村部長の事を考えてしまう。
駄目だ。

野々村はどこいった。





結局。土日はずっとぐうたらするハメになった。
私の中で「通り魔事件」と名付けて、その恐怖を過去の出来事にしてしまう作業と
それにもれなく付いてくる、田村部長の素敵な一面に跳ね上がる心臓をセーブする事に
全ての能力を使い切ってしまったからだ。

そういえば、どこかで。
吊り橋論、というのを耳にした事がある。

吊り橋のような危うい場面で男女が出会うと高確立で恋に落ちるというアレだ。
実際本当に吊り橋ではないが、私の心臓には悪い出来事だったアレはまさにそういう状態なのでは。

きっと、これはそういうモノなのだと思う。
思い込む事にする。

田村部長は確かに素敵な人だ。
それは認める。

だけどそれじゃ
私の今までの。
野々村への気持ちはどうなるのだろう。


複雑な思いのまま、日曜が終わる。
< 23 / 102 >

この作品をシェア

pagetop