淡雪
「引っ立てろ!」

 花街の会所からも人が集まり、喚く奈緒を引き連れていく。
 こそっと男衆の一人が、黒坂に近付いた。

「旦那、とりあえず今のうちに」

 こそりと耳打ちし、傍の者に音羽を渡す。
 そして素早く騒然とする人混みに黒坂を連れて紛れ込んだ。

 後ろ髪を引かれる思いで音羽から離れた黒坂は、花街の端、大通りから外れた川沿いの裏通りで足を止めた。
 前の男が振り返る。

「乗ってくだせぇ。お送りします」

 言いつつ土手を降りて川に近付く。
 よく見ると、小さな小舟が舫ってある。

「いざというときのための早舟でさ」

 とん、と舟に飛び移り、男は竿を握った。

「お前も舟を操れるのか」

「花街の男衆は、これぐらいの舟なら何とか動かせまさぁ」

 男に続いて黒坂も舟に飛び乗った。
 すぐに舟は土手を離れ、暗い川に滑り出していく。

 ちらりと黒坂は、花街を振り返った。
 道を一本入れば、大通りの華やかさは嘘のように鳴りを潜める。
 安い裏見世の立ち並ぶ薄暗い界隈には、大通りで起きた先ほどの騒ぎも届かない。

「あの女、旦那のお知り合いで?」

 不意に竿を操りながら、男が口を開いた。

「……小槌屋の客だ」

「……はぁ、お仕事絡みのお知り合いで」

 なるほど、と呟きながらも、男は首を捻った。
 小槌屋の対談方が客と会うのは、取り立てのときだ。
 決していい状況ではない。

「その辺の詳しいことは、女将に聞いてくれ。それよりも音羽は大丈夫だろうか」

 黒坂にとっては、奈緒よりも音羽のほうが心配だ。
 斬られているのだ。

 おそらく身体は大きな帯もあるし無事だろうが、剥き出しの首から顔は無事では済むまい。
 結構な血が飛んだし、首筋は場所によっては命に係わる。

「何とも言えませんや」

 声を落とし、男はそれきり黙って舟を進めた。
< 111 / 127 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop