淡雪
「まだ明るいとはいえ、あそこの神社はあまり人がおりませんから、気を付けてくださいよ」

「大丈夫ですよ。いざとなれば三味線で殴りつけますから」

 必殺技も黒坂様に教わったし、と思いつつ言う奈緒に、良太郎は苦笑いを返す。
 好いてくれているというのは、こういうことを言うのだろうな、と、奈緒は胸を少し痛めた。

「奈緒殿? どうかしました?」

「いえ。あ、そうだ。良太郎様、舟雅ってご存知ですか?」

 ふと黒坂と少女の会話を思い出し、誤魔化す意味もあって聞いてみると、良太郎は驚いた顔で奈緒を見た。

「どうなさったの?」

「い、いえ。奈緒殿、何故そのようなことを?」

 やたらと狼狽えながら言う良太郎に、何か変なことを言っただろうかと思いながら、奈緒は首を傾げた。
 ただ黒坂に関わることのようなので、気になっただけだ。
 だが当然そんなこと良太郎には言えない。

「えっと、その、お稽古処で、ちらっと小耳に挟んだだけですけど……。舟宿かなって……」

「え、稽古場で? ちょ、ちょっとそれ、あんまり言わないほうがいいですよ」

「えっ? どうして?」

 きょとんとする奈緒に、良太郎はどこかほっとしたような顔になったが、依然赤い顔のまま、きょろきょろと辺りを見回すと、こそりと奈緒に耳打ちした。

「あの。舟雅というのは確かに舟宿なんですけど、それは表向きで、男女の密会によく使われる宿なんですよ」

 どきん、と奈緒の胸が鳴った。

「いえね、舟宿って船を使えばあまり人目に立たずに宿に入れるでしょう? 結構離れたところでも、船を使えば速いですしね。ですから舟宿はまぁ、そういった場になりやすいようなんですけど」

「じゃ、じゃあその舟雅も、普通に舟宿の集まるところにあるんですか」

「ええ。一応舟宿ですからね。小さい宿のようですけど、小奇麗で人目を忍ぶにはいい宿だとか。あ、いえ、私は行ったことはありませんよ? 近くの本当の舟宿がやってる飲み屋に行っただけです。そのときに、同僚に聞いたのですよ」

 はた、と我に返り、必死で申し開きをする良太郎だったが、奈緒はその辺はもう聞いていなかった。
 頭にあるのは、少し前に別れた黒坂の姿。
 どこか上の空だったのも、そういうわけか。

 まさか、あの少女が相手ではあるまい。
 誰かと会う約束を、あの少女が伝えに来たのだろう。

 そう思ったときには、奈緒は良太郎を置いて、駆け出していた。
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