淡雪
「……怒ったか?」

「複雑……です」

 黒坂の胸に縋り付いて、音羽が首を振る。
 音羽がもっと下位の女郎であれば、身請けも可能かもしれない。
 だが、ここまでの自由はないだろう。

 一方花街一と名高い花魁であるからこそ、このような逢引きも許されるのだ。
 だが身請けなど夢のまた夢だ。

「結局、あっさりと結ばれることはないのです」

 月に二、三度、小さな舟宿で愛し合うだけ。
 音羽ほどの花魁となれば、身請け話も何件かある。
 だがそれを、全て音羽は断っているという。

 一人の旦那のところに囲われてしまえば、他の男と会うことはできなくなる。
 だからと言って黒坂が身請けできるはずもないが、だったら一生招き屋の遊女でいい、と決めているのだ。

「年季明けまで辛抱して貰うしかねぇ。すまねぇな、甲斐性なしで」

「武家で金持ちなんて、悪いことしてる奴ばっかだよ。大体黒坂様、年季明けまで待ってたら、じいさんになっちまいますよ?」

「構わねぇよ。あ、でもお前が嫌か」

「黒坂様が待っててくれるなら、どんな姿だって構わないよ」

 がばっと音羽が抱きついてくる。
 音羽はいつも、湯屋に行ってから会いに来る。

 この花街の遊女は外の湯屋に行くので、長時間の外出の口実には打ってつけなのだ。
 先に湯屋に行き、髷も全て降ろしてくるので、気にせず抱き合えるわけだ。

「でも、そういうわけにもいかないよね? 黒坂様だって、一生独身ってわけにはいかないでしょう?」

 音羽と黒坂の視線が絡み合う。

「私はそれでもいい。黒坂様が誰かを娶っても、こうやってたまに会ってくれればいいよ」

 遊女である限り、武士と結ばれるのは難しい。
 結ばれたところで囲い者としてが関の山。
 正妻になど、なれるわけがない。

 音羽もそれはわかっている。
 雨の音しかしない小さな部屋で、ぎゅっと二人は抱き合った。
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