淡雪
 音羽が入ったのは、いかにもな安宿だった。
 今にも崩れそうなあばら家の入り口に、店番の老婆が置物のように座っている。

「辻君なんかが、客を引っ張り込むところだよ。店の婆さんはほとんど目が見えないし、人目を忍ぶ奴らにゃ打ってつけの宿だ」

 言いつつ音羽は、慣れたように軋む階段を上がっていく。
 慣れているということは、音羽もこういうところを利用することがある、ということだろうか。
 もしかして、その相手は黒坂ではないのではないか?

 一番奥の部屋の襖を開け、音羽は中に入った。
 がらんとした部屋には、奥に布団が二組畳まれている。
 奥の窓を開けると、少し部屋の中が明るくなった。

「さて、お武家のお嬢様が、人の間夫の名を騙ってまで、わっちに何の御用だい」

 窓辺に寄りかかり、音羽が奈緒を見据えた。
 ちょっとした仕草の一つ一つが艶めかしい。
 さすが花街一の花魁だけある。
 奈緒など完全に負けてしまっている。

「あ、あなたは黒坂様の何なんですか」

 それでも腹に力を込め、奈緒は音羽に言った。

「わっちも同じことを、あんたに問いたいね。あんた、黒坂様の何なんだ」

 う、と奈緒が怯んだ。
 同じ質問内容でも、迫力が全く違う。
 相手の心が自分にあるという自信の表れだろう。

「黒坂様は、わっちの間夫だよ。さっきも言ったろ」

「だ、だから、何故花魁の間夫が黒坂様なんです。どういう繋がりなんです? どこで知り合ったっていうんですか」

「そんなこと聞いて、どうしようってんだい?」

 音羽はどこまでも冷ややかに言う。
 逆に奈緒は、かっとなりつつ音羽に詰め寄った。

「私、黒坂様との縁談を進められてるんです。嫁ぐ殿方に、遊女の陰なんて、あって欲しくありません」

 きっぱりと言ったつもりだったが、声が震えてしまう。
 まだ父の昇進についてはわからないし、黒坂にだって、そんな気はないと言われているが、嫁ぐ前提で話をしないと音羽に負けてしまう、と、奈緒は必死で音羽を見据えた。
 初めに招き屋で、奈緒が音羽に黒坂のことを聞いたときのように、音羽の目が、すっと細められる。
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