淡雪
 とはいえおそらく舟雅は、いつも逢引きに使っているのだろうし、下手にそこで見知らぬ女子が黒坂の名を騙って音羽を待ち伏せするのはよろしくなかろう。
 できれば此度のことは、黒坂の耳には入って欲しくない。

 とりあえず、奈緒は舟雅の前の、店から死角になるところで音羽を待った。
 通りに目をやっておけば、舟雅の前は宿までの一本道なので見落とすことはない。

 半刻ほど経ったとき、通りの向こうに傘が見えた。
 俯き加減で、さらに傘で顔を隠しているが、音羽に間違いない。

 奈緒はふらりと、音羽の前に進み出た。
 音羽が足を止め、奈緒を見る。
 しばらく二人は、そのまま見つめ合った。

「……もしかして、わっちを呼び出したのは、あんさんか」

 音羽の形のいい唇から、言葉がこぼれた。

「まだあのときの問いの答えを聞いておりませぬ故」

 奈緒が言うと、音羽は、ふ、と息をついた。
 そして前方の宿に目を向ける。

「そこに黒坂様は、おられませなんだな?」

 奈緒が頷くと、音羽はため息をつき、奈緒に近付いた。
 構えたが、別に奈緒に近付いたわけではなく、舟雅に向かっただけのようだ。
 そのまま宿に入ろうとする音羽に、奈緒は慌てた。

「ちょ、ちょっと待って。黒坂様はおられません。宿に呼び出したのは、あなた方がいつも使っていたからで」

「けど、ここで突っ立っておるわけにもいかぬであろ。まさか往来で話をする気かえ?」

「そ、そうですけどっ。でもそこは嫌です!」

 必死で言うと、音羽は冷めた目を向け、再びこちらに歩を進める。

「……なら、ついてきんしゃい」

 振り返りもせずに、すたすた歩いていく。
 それほど喋ってもいないのに、早くも音羽に呑まれている。
 ぐ、と拳を握ると、奈緒は深呼吸して音羽の後を追った。
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