花の名前
予感
1
「じゃあ、二人の快癒を祝って。」
乾杯、とジュースのグラスを合わせた。
ホントは家で飲みたいと言われたんだけど、亜衣子サンにも心配かけたし!と言い張って、ここに来た。
でも、お酒は帰ってからにして欲しいと言われ、目論見が外れてしまった。帰ったらお風呂に入って、速効寝るつもりだったのに…。
「どうしたの?トーコちゃん、まだ調子悪い?」
「あ、ううん、大丈夫ですよ…」
と言いながら、パングラタンを囓り、チラリと横を見て後悔した。…何か、見てる人がいる…。
「今日から仕事出てたの?」
「あー、はい。…体力が、だいぶ戻ったので。」
「熱が下がって直ぐは、フラフラしてたんですよ。階段から落ちるんじゃないかと気が気じゃ無くて。」
頬杖をついたまま、カズはこっちに向けていた視線を亜衣子サンに向ける。やれやれ、なんなのこの威圧感…。
「あら、大変ね~。良かったわね、1人じゃなくって。」
まったくです、としたり顔で言うカズの足を、蹴ってやりたい衝動をなんとか堪える。
―――この2週間は、ホントに大変だった。…色んな意味で、主に、私が。
点滴が功を奏したのか、カズは2、3日で熱が下がった。
とはいえ、やっぱり40度近い熱があるうちは心配で、終わったら直ぐ帰るために仕事に集中し、例の教会のコンペは、夜中、時々カズの様子を見ながら考えて形にした。
何とか提出したのだけど、それで気が抜けたのか、カズの回復と入れ替わるように、高熱を出して寝込んでしまったのだ。
インフルエンザにかかったのは初めてだった。
小学校の頃なんかは、学校で予防接種を受けてた気がするから、それでかもしれない。
マスクをしなきゃ…と思いつつも、最初に着けて部屋に入ったら、顔が見えないのは寂しいと熱で潤んだ瞳で訴えかけられ、うっかり絆されたのが大きな間違いだった。
「伝染っちゃったね。」
そう言ったカズの顔が何だか嬉しそうに見えたのは、気のせいでは無かった事をつくづくと思い出して、ため息をつく。
突如襲われた寒気にガタガタ震え始めたのを見て取ったカズは、タクシーを呼んで、文字通り抱き抱えて美幸さんの所に運び込むと、点滴を受けている間に実家に戻って美幸さんの車を借りてきて、私はそれに乗せられて家に帰ったらしい。
らしい―――というのは、その間の記憶がぼうっとしてて曖昧だったせいで、やっと気が付いた時には、パジャマ姿で自分のベッドに寝ていた。…何故か、カズに抱き締められた状態で。
「トーコさん、寒いって言うから。」
心の中ではパニックに陥っていたにもかかわらず、まだ高熱があるせいで、ベッドどころか、カズの腕から飛び出すことも適わず、ボンヤリと和やかな笑顔を見上げる事しか出来ない。
まさか、自分がしがみついて離さなかったんだろうかと、内心で冷や汗を掻いていると、カズは肘をついて体を起こし、ヘッドボードからスポーツドリンクのペットボトルを取った。
「少し飲んどこうか?」
と言って、飲み口を宛てがってくれるけど、まだ頭が動かない状態では難しい。そう思っていたら、徐にカズがそれを呷り、親指で下唇を押し下げるようにして、唇を押し当ててくる。
拒む間もなく、流し込まれた液体を反射的に飲み込んだ。
繰り返すこと、三度。立て続けに飲まされる。
一体、何が起こってるんだろう―――呆然としていると、唇を離したカズが、今度は頰に当てていた手の平を滑らせて、指の背で首筋をなぞってくる。瞬間、硬直した。
「汗すごいね…着替えようか? 待ってて、タオル取ってくるから。」
と言って、ベッドを出る。部屋の扉がバタンと閉まった所で、一気に脱力して目を閉じた。
おかしい、何かがおかしい―――。
そう思うのに、熱のせいか頭がぐらぐらして、それ以上動かない。
直ぐに戻ってきたカズが、パジャマのボタンに手を掛けた所で、流石にその手を掴んで止めた。
「着替えないと、良くならないよ? 背中も、自分じゃ拭けないよね?」
いや、それはわかるんだけど!という抗議も声にならないけど、必死で首を振ると、カズが困ったように微笑んだ。
「じゃあ、向こう準備してくるから、それまでに終わってなかったら手伝うからね。」
半ば脅すような言葉を残してカズが出て行くと、急いで体を起こし、途端に眩暈を起こして顔からベッドに倒れ込んだ。
ダメ、頑張れ、自分―――!!
と叱咤激励した所で、下から掬い上げるように抱き起こされる。ヤレヤレ、という顔で覗き込んだカズは、もう何も言わずに、あっという間にパジャマを剥ぎ取り、首から胸元、お腹に背中に足の間―――要するに全身隈無く拭いて、新しいパジャマを着せると、そのまま抱き上げ、今度は隣のカズの部屋に連れていかれて、カズのベッドに寝かせられた。
あまりの仕打ちに、思わず枕に顔を埋めた。女としての、何かを失った気がする―――。
「あっちの部屋は換気して布団乾燥機かけるから、今日はこっちで寝よう。」
とっても親切な申し出に聞こえるけど、やっぱり何かおかしい気がするのは気のせい? 寝ようって、カズはどこで寝る気なのよ?
「あと、トーコさん、下着は自分で替えられる?」
ギョッとして顔を上げると、カズが小さな洗濯用のネットを差し出した。
「これ、亜衣子サンに“新しいの”入れてもらってるから、“脱いだの”と入れ替えて。」
何でも無いことのように言ってるけど、おかしいよね? それ。
私、ここまで世話してないよ?
それともこれが普通なの?
言葉を無くした私の前で、カズが和やかに微笑んだ。
「トーコさんがインフルエンザになったの、俺のせいだからね。しっかりお世話するように、母にも亜衣子サンにも言われてるんだよ?」
うん、でも、絶対、ここまでしろとは言われてない、はず―――
乾杯、とジュースのグラスを合わせた。
ホントは家で飲みたいと言われたんだけど、亜衣子サンにも心配かけたし!と言い張って、ここに来た。
でも、お酒は帰ってからにして欲しいと言われ、目論見が外れてしまった。帰ったらお風呂に入って、速効寝るつもりだったのに…。
「どうしたの?トーコちゃん、まだ調子悪い?」
「あ、ううん、大丈夫ですよ…」
と言いながら、パングラタンを囓り、チラリと横を見て後悔した。…何か、見てる人がいる…。
「今日から仕事出てたの?」
「あー、はい。…体力が、だいぶ戻ったので。」
「熱が下がって直ぐは、フラフラしてたんですよ。階段から落ちるんじゃないかと気が気じゃ無くて。」
頬杖をついたまま、カズはこっちに向けていた視線を亜衣子サンに向ける。やれやれ、なんなのこの威圧感…。
「あら、大変ね~。良かったわね、1人じゃなくって。」
まったくです、としたり顔で言うカズの足を、蹴ってやりたい衝動をなんとか堪える。
―――この2週間は、ホントに大変だった。…色んな意味で、主に、私が。
点滴が功を奏したのか、カズは2、3日で熱が下がった。
とはいえ、やっぱり40度近い熱があるうちは心配で、終わったら直ぐ帰るために仕事に集中し、例の教会のコンペは、夜中、時々カズの様子を見ながら考えて形にした。
何とか提出したのだけど、それで気が抜けたのか、カズの回復と入れ替わるように、高熱を出して寝込んでしまったのだ。
インフルエンザにかかったのは初めてだった。
小学校の頃なんかは、学校で予防接種を受けてた気がするから、それでかもしれない。
マスクをしなきゃ…と思いつつも、最初に着けて部屋に入ったら、顔が見えないのは寂しいと熱で潤んだ瞳で訴えかけられ、うっかり絆されたのが大きな間違いだった。
「伝染っちゃったね。」
そう言ったカズの顔が何だか嬉しそうに見えたのは、気のせいでは無かった事をつくづくと思い出して、ため息をつく。
突如襲われた寒気にガタガタ震え始めたのを見て取ったカズは、タクシーを呼んで、文字通り抱き抱えて美幸さんの所に運び込むと、点滴を受けている間に実家に戻って美幸さんの車を借りてきて、私はそれに乗せられて家に帰ったらしい。
らしい―――というのは、その間の記憶がぼうっとしてて曖昧だったせいで、やっと気が付いた時には、パジャマ姿で自分のベッドに寝ていた。…何故か、カズに抱き締められた状態で。
「トーコさん、寒いって言うから。」
心の中ではパニックに陥っていたにもかかわらず、まだ高熱があるせいで、ベッドどころか、カズの腕から飛び出すことも適わず、ボンヤリと和やかな笑顔を見上げる事しか出来ない。
まさか、自分がしがみついて離さなかったんだろうかと、内心で冷や汗を掻いていると、カズは肘をついて体を起こし、ヘッドボードからスポーツドリンクのペットボトルを取った。
「少し飲んどこうか?」
と言って、飲み口を宛てがってくれるけど、まだ頭が動かない状態では難しい。そう思っていたら、徐にカズがそれを呷り、親指で下唇を押し下げるようにして、唇を押し当ててくる。
拒む間もなく、流し込まれた液体を反射的に飲み込んだ。
繰り返すこと、三度。立て続けに飲まされる。
一体、何が起こってるんだろう―――呆然としていると、唇を離したカズが、今度は頰に当てていた手の平を滑らせて、指の背で首筋をなぞってくる。瞬間、硬直した。
「汗すごいね…着替えようか? 待ってて、タオル取ってくるから。」
と言って、ベッドを出る。部屋の扉がバタンと閉まった所で、一気に脱力して目を閉じた。
おかしい、何かがおかしい―――。
そう思うのに、熱のせいか頭がぐらぐらして、それ以上動かない。
直ぐに戻ってきたカズが、パジャマのボタンに手を掛けた所で、流石にその手を掴んで止めた。
「着替えないと、良くならないよ? 背中も、自分じゃ拭けないよね?」
いや、それはわかるんだけど!という抗議も声にならないけど、必死で首を振ると、カズが困ったように微笑んだ。
「じゃあ、向こう準備してくるから、それまでに終わってなかったら手伝うからね。」
半ば脅すような言葉を残してカズが出て行くと、急いで体を起こし、途端に眩暈を起こして顔からベッドに倒れ込んだ。
ダメ、頑張れ、自分―――!!
と叱咤激励した所で、下から掬い上げるように抱き起こされる。ヤレヤレ、という顔で覗き込んだカズは、もう何も言わずに、あっという間にパジャマを剥ぎ取り、首から胸元、お腹に背中に足の間―――要するに全身隈無く拭いて、新しいパジャマを着せると、そのまま抱き上げ、今度は隣のカズの部屋に連れていかれて、カズのベッドに寝かせられた。
あまりの仕打ちに、思わず枕に顔を埋めた。女としての、何かを失った気がする―――。
「あっちの部屋は換気して布団乾燥機かけるから、今日はこっちで寝よう。」
とっても親切な申し出に聞こえるけど、やっぱり何かおかしい気がするのは気のせい? 寝ようって、カズはどこで寝る気なのよ?
「あと、トーコさん、下着は自分で替えられる?」
ギョッとして顔を上げると、カズが小さな洗濯用のネットを差し出した。
「これ、亜衣子サンに“新しいの”入れてもらってるから、“脱いだの”と入れ替えて。」
何でも無いことのように言ってるけど、おかしいよね? それ。
私、ここまで世話してないよ?
それともこれが普通なの?
言葉を無くした私の前で、カズが和やかに微笑んだ。
「トーコさんがインフルエンザになったの、俺のせいだからね。しっかりお世話するように、母にも亜衣子サンにも言われてるんだよ?」
うん、でも、絶対、ここまでしろとは言われてない、はず―――