花の名前

2

 ぽっかり―――というのが、ぴったりな目覚めだった。

 ボンヤリと辺りを見回すと、見慣れた部屋の景色が目に入る。時計を見ると2時過ぎを差していて、差し込む光で、昼下がりだとわかった。
 額に手を当てて、あまり熱くない事に気が付く―――良かった、熱が下がったみたいだ。

 体を横にして肘を突くと、少し眩暈を覚えたけど、何とか起き上がれた。しばらくボンヤリとしてから、熱を出して何日位経ったんだっけ…と考えてみる。
 ていうか、何回部屋を移動したんだっけ…?
 その度にパジャマを替えられて、体を拭かれて…洗濯が追いつかないとか言って、今着せられてるのは、何故かカズのネルシャツだ。それだけとか、おかしくない?…パンツは履いてるけど。
 襟首を摘まんで、中を覗いてみる。

 ―――まあ、確かに無いけどね。まったくそそられないのはわかるよ、わかるけど…まるでねこの世話をするみたいだった、今思えば。でなきゃ子供。
 だって、添い寝して頭ポンポン、だよ?

 ばふっと、枕に突っ伏した。

 好きだよ―――って、あれ、やっぱり熱のせいでおかしくなってたのかも。
 そう思うぐらいには、何というか、女としての矜持というか、自尊心とでもいうか、そういうものを粉々に砕かれてしまった感が拭えない。
 思えば、今までキスしてきたヤツらも、「何で?」と聞くと、皆一様にハッとして―――言うなれば、目が覚めたというように身を引いて、気まずそうに謝ってきたものだ。
 ホント、お酒ってこわいな…とつくづく思う。
 カズはバイクに乗るせいか、お酒を飲んで酔っ払ったのを見た事が無いけど、あの時点ですでに熱があったのなら、まあ、なくもない…のかな。
 そういえば、やけに手の平とか熱かった気がする。
 他に経験が無いから、普通時の舌の温度とかはわからないけど―――と、思い返して、恥ずかしくなった。口腔内を探るように蠢き、執拗なまでに絡みついてきた舌の感触を、まざまざと思いだして。
 体の奥から、ざわりとなんともいえない感覚が広がり、思わず自分で自分の体を抱き締める。舌先が痺れたみたいになった気がして、口許を押さえた。
 どうしよう、おかしい、これ。
 もう一週間以上は経ってるはずなのに、なんでこんなに生々しく思い出してしまうんだろう。
 胸もなぜか張って、先端がシャツに擦れて痛いし、生理の時みたいにお腹が変な感じがする…あ、そうか生理か。そういえば、もうすぐだったかも。
 そうだ、それでだ…と、納得(?)した。てゆうか、したい。だって、これじゃまるで、欲求不満…
 大丈夫!生理前だから!と、自分に言い聞かせるようにしながら、もう一度起き上がった。

 まだちょっとふらふらするけど、今ならカズもいないみたいだし、ちょうど良いからお風呂に入ろうと、ベッドから出た。
 シャワーを浴びてスッキリすれば、割と普通にカズの顔が見れる、と思う、たぶん…。
 誰が洗ったかはもう気にしないことにして、キチンと畳んで入れてあった下着を取り、ジーンズとセーターと一緒に持って、部屋のドアを開けた。
 踏み外さないように、そろりそろりと足元を見ながら降りていく。全部降りきった時には、少し息が上がっていた。すっかり体力が落ちてる。
 降りて直ぐのドアに手を掛けて、開けようと押したのと、内側から強く引かれるのが同時で、うわっ…と前のめりに倒れ込んだと思ったら、カズの腕の中にいた。
 咄嗟にカズの匂いを胸一杯に吸い込んでしまい、きゅう…っと体の芯が絞られるような甘い痛みに襲われて、息を飲む。心臓がバクバクと激しく音を立て始めて、そんな自分の反応に戸惑い、無意識に体が震えた。カズの胸板の硬さや、抱き止める腕の力強さを嫌というほど感じて、息をするのも苦しい。
 息を詰めて、ギュッと手を握りしめると、頭の上で、カズが深いため息をついた。

「何やってんの、トーコさん。まだ無理しちゃダメだよ。」
 更にため息をつきながら、床に散らばってしまった着替えを見たのか、呆れたように続ける。
「どこに行くつもりだったの?」
 何だか声が低いのは、怒ってるからなんだろうか、肩を掴んだ手に力が籠もって痛い位だ。
「お風呂、入ろうかと思って…」
 熱下がったし…と言う声は、自分でも信じられないくらい弱々しい。それが恥ずかしくて、未だ治まらない胸の高鳴りを知られたくなくて、出来れば今すぐ離れたいと思う反面、温もりに縋り付きたい気持ちになって、こくり、と息を飲む。
 カズはもう一度深々とため息をつくと、前屈みになるようにしながら、お尻の下に腕を回して私を抱き上げ、ソファに移動した。足を引き寄せるように持ち上げながら、ソファに腰掛けたカズの、膝の上に乗せられる。
「もうちょっとの辛抱だから、大人しくしてて。」
 一連の動きについて行けず、呆然としたまま抱き寄せられ、優しく手の平で頭を撫でられて、我に返った。

 だって、間違いなく、臭い!

 咄嗟に体を起こして、離れようとした腕を摑まれる。
「ちょっ、離してっ」
 必死だった。今更と言えば今更だけど、意識があるとないとじゃ全然違う。それで無くても、散々醜態を晒してしまったのだ。
 これ以上は勘弁して欲しい―――そう思うのに、腕を掴む力が強くて、病み上がりの体力では振りほどけない。
「トーコさん…」
 何だか怒ったような顔が近付いてきて、更に狼狽える。だって、顔も洗ってないし、歯だってずっと磨いてない!!

「ちょっと、ホントにやめてっっ!!」
 悲鳴のように叫ぶと、カズの体がビクッと強張った。
 解放された腕で、自分の胸元を掴んで身を縮こませると、カズが少し傷付いたような目で、視線を落とす。途端に罪悪感に見舞われた。

「…ゴメン、ね。」
 咄嗟に謝ると、カズが低い声で笑った。
「謝るんだ?」
 何か、前にも同じような会話したな…と思いながら、やっぱり同じように返す。
「…うん、色々…お世話をおかけして…」
 カズが口を歪めるように笑ったのを見て、居たたまれなくなる。だって、感謝する気持ちはホントにある。
「ホントに、ゴメン、ありがと…でも…」
 でも?と、無言で促される。言いにくいけど、仕方ない。
「その、ちょっと…やり過ぎ、ていうか、恥ずかしい、ていうか…」
「やり過ぎって?」
 え、自覚ナシ?思わずまじまじと見返した。無意識って、タチ悪すぎない?!
「あのね、いくらなんでも、この歳で裸なんて、弟にも見せてないよ?」
 下着はそりゃ、実家では母親に洗って貰ってたけど、添い寝なんて子供の時以来だし、口移しなんて、記憶に無いレベルだよ?!と、恥ずかしさを誤魔化すように捲し立てると、カズがなんともいえない微妙な顔でため息をついた。

「あの、ホントに…」
 感謝は思いっきりしてるよ?と言いながら伏せ気味になった顔を覗き込むと、カズが上目遣いに見返しながら言った。

「トーコさん、何か忘れてない?」

 何を?と言いかけた唇を塞がれて、拒む間もなく、ソファの膝掛けに押し倒された。
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