今宵は遣らずの雨

そう云って、芳栄の方は先刻(さっき)までぼおっと開いていた目を閉じた。

そして、その閉じられた瞳から、涙が一筋、流れた。


初音は目を見開いた。

おそらく、寿姫が生まれる前にはもう、芳栄の方が夜伽に呼ばれることがなくなっていたのであろう。


それゆえ、寿姫が生まれる日に、兵部少輔は初音の(もと)に訪れたのだ。

この刹那、初音にあの日の兵部少輔の切なげな眼がよみがえる。

それに、情け深い兵部少輔が、たとえ情が通わぬ相手との子であろうとも、血の通う我が子に対してあのような冷たい仕打ちをするはずがない。


初音が(いぶか)しく思っていたことが、氷が溶けるがごとく消えていく。


……されど。

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