今宵は遣らずの雨

小夜里が小太郎を身籠ったのを診立てた、町医の竹内(たけうち) 玄胤(げんいん)には息子がいた。

「お師匠、今日はそなたに断りもなく、小太郎を連れ出してしまって申し訳ない」

竹内(たけうち) 玄丞(げんしょう)は、落ち着いた微笑みで詫びた。

小夜里の目が一瞬、玄丞に移った隙を突いて、

「母上っ、論語の素読をして参りますっ」

小太郎がすぐさま下駄を脱ぎ、土間から畳に上がった。

水を張った(たらい)と手拭いを用意したおみつが「またか」と呆れた笑いを浮かべる。

「そなたっ、足を洗うたかっ。畳が土で汚れるではないかっ。これっ、待たれよっ」

母親の金切り声なぞ、どこ吹く風で、小太郎の姿はもう、(ふすま)の向こうへ消えていた。


小夜里は全身からため息を吐き出した。

女親だけでは立ち行かぬことを、まざまざと思い知らされるときだ。

玄丞がくすり、と笑った。

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