真夜中だけは、別の顔
良かった。晴太が幸せそうでよかった。
踵を返し、コツコツとヒールを鳴らして三輪のもとへ歩き出す。すると、
「──伊吹!」
晴太が再び伊吹を呼んだ。──が、その呼び方に違和感を覚えて立ち止まった。
「──え?」
違和感は当然のことだった。
なぜなら晴太は伊吹を名前で呼んだりしない。それは出会ってから今のいままでずっと、だ。
私を名前で呼んだ男など、過去にたった一人しかいない。
「……ア、ツキ?」
振り返ると、そこには晴太ではなく蒼月がいた。当たり前の事だか、その見た目が変わるわけではない。
離れていても分かる。同じ顔をしていても、同じ身体をしていても気配、その佇まい……伊吹には彼らの違いが分かる。
「──っ、」
いたんだ。まだ、晴太の中に──。
二度と会うことはないと思っていた。
会えないほうがいいのだと思っていた。
けれど、蒼月の存在がいまなおそこにあることを嬉しいと思っている自分がいる。
「久しぶり。伊吹は、いま幸せ?」
蒼月が訊ねた。私を好きだと言った頃と変わらない静かで柔らかな瞳で。
「──うん。幸せだよ」
「そう。伊吹に会えて良かった。……それが聞けて僕も幸せだよ」
その静かな懐かしい声に心が震える。
「──私も、会えて良かった。あなたに会えてよかった」
蒼月が教えてくれた。好きな男のまえで素直に“女”になることの幸せを。
蒼月が教えてくれた。誰かに“愛される”喜びを。
好きだった。そう言えたら良かった。でもその言葉は蒼月をまた苦しめる。
蒼月にも幸せでいて欲しかった。たとえ、“表”には出られなくても。
私の言葉に満足したように微笑んだ蒼月の顔は、次の瞬間、さっきまでの晴太の顔に戻っていた。一瞬晴太が不思議そうな顔をして、ニッと白い歯を見せて笑うと背中を向けて歩いて行った。