最後の男(ひと)
「部屋に案内するよ」

「いいんですか」

「だめなのかよ」

「付き合っている人とか、いたらやだなって」

「いたら一香を部屋に通すかよ。言ったよな、俺、並行してとか無理だって。一香は? 一人暮らしの男の家に行っても大丈夫なのか」

「そうじゃなかったら、ここまで来てないです」

「じゃあ、問題ないな」

それまで重ねていただけの手のひらが離れたと思ったら、温もりが消えないうちに私の指は先輩の長く節だった指に絡み取られて、最後にぎゅっと強く握られた。

問題はたった今起きました、先輩。
さっきまで小さく鳴っていた胸の鼓動が一段と速さと音を増して、息が苦しいです。
ばかみたいに心の中で実況中継でもしていないと、どきどきしすぎて目が眩みそう。

「飯まだだよな。外出るか」

先輩は私をリビングに残して、着替えてくると言って寝室へ入っていく。
3年も住んでいれば生活感もあって適度に雑然としている。部屋を見渡して目に付くのは本の多さだ。電子書籍ではなく紙媒体で本を読むことを好むようで、殆どが仕事絡みと思しきものの他は、ミステリーやSF小説が占めている。

「今日は突然押しかけちゃったし、冷蔵庫に何かあるなら私作りますよ」

「じゃあ、ディナーは明日にしよう。行きたい店はあるか? 簡単なもので良ければ、今日は俺が作るよ。長旅で疲れただろ」

そこまで話したところで、ネイビーのチノパンとVネックのカットソーに着替えた先輩が腕まくりをしながら寝室から出てくる。日本でも何度か私服姿の先輩とデートをしたけれど、体が鍛えられているせいか、何でもない服をさらりと着ただけなのにやっぱりサマになっている。

「ありがとうございます。食べ終わったらお皿は私が洗いますね」

長身にすらりと伸びた手足。鍛えられた背筋から繋がる幹みたいに太くて長い首筋、その上にちょこんと小さな後頭部が行儀良くのっている。

欧米人のように眉と目の間隔が狭くて少しワイルドな顔立ちなのに、笑うと爽やかな風が吹く。

そんな先輩だから、教育係として私についていた頃はやっかみもあった。
いい男はきっと学生時代からモテ男で、自分を取り巻く環境には慣れていたのだろう。些細な嫌がらせをしてくる女子社員を上手にいなして私を守ってくれていた事を知ったのは、先輩が海外赴任になってからのことだった。


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