言い訳~blanc noir~
ピリオド
 濡れた髪をタオルで拭きながら「なに?」と返事をする。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら「飲む?」と尋ねると、夏海はこくりと頷いた。

 夏海が座るソファの前に置かれたローテーブルにグラスを2つ並べる。ラグの上に置かれたクッションに和樹が腰をおろした。

 とくとくと小さな音を立てグラスにビールを注ぐ。夏海はその光景をぼんやりと眺めていた。

「話ってなに?」

 和樹がビアグラスに口付けながら訊ねると、夏海も同じようにグラスに口を付けた。しかし夏海の表情は硬く、口をつぐんだまま話し始める気配もない。

 空気清浄器が作動する唸りが静かにリビングに響いている。

 すると何かが腰のあたりに触れ和樹が目線を下に向けるといつの間にかクロが隣に座っていた。猫は足音も立てず突然姿を現し、気が付くといつの間にか姿を消している。

「クロは忍者みたいな奴だね」

 和樹がクロを抱き上げ膝の上に乗せる。夏海はふっと口元に笑みを浮かべた。

「クロ、元気になって良かったね。今日もお昼にね、リビングに出てきて日向ぼっこしてたの」

 今日は昼過ぎから夕方近くまで絵里子とラブホテルにいた。窓がない部屋だったため陽が照っていたかどうかはっきりとした記憶がない。和樹は何も言わずクロの背中を撫でていた。

「絵里子さんの事好きなの?」

 いきなり何の前触れもなく夏海が切り出した。クロを撫でる手が止まり、和樹は顔を上げた。

「なに突然」

「突然っていうわけでもないんだけど。なかなかこういう事って聞きにくいじゃない? 私たち一応夫婦なんだし」

“一応夫婦なんだし”

 夏海もこの夫婦関係が普通ではないと感じているようだ。

 和樹がビールを口にすると小さく笑った。

「いつから気付いてたの?」

 別に隠すつもりもなかった。夏海も顔色一つ変えずグラスを口に運び「うーん」と思い出すような声をあげる。

「はっきりとは覚えてないんだけど。でも1年くらい前かな。絵里子さんとばったりスーパーで会ったの。その時にね、ちょっと意地悪な事言われて。ああ、そういう関係なんだって思ったんだ」

「意地悪な事? 何を言われたの?」

 夏海が眉を下げて困ったように笑う。

「“椎名さんの胸のほくろ、セクシーですよね”って言われたの。和樹の胸にほくろあるじゃない。そんなの裸にならないと見る機会なんてないし。だから私も“どうしてそんな事を堀田さんがご存じなんですか?”って聞いたの。そしたら絵里子さん、昔、皆で海に行った時に見た事があるって言ってたけど。そんな昔の事を鮮明に覚えてる人いないでしょ? しかも彼氏でもない男のほくろなんて記憶にも残らないんじゃない?」

 和樹は失笑気味に肩を揺らした。

「そんな事言われたら鈍感な奴でも気が付くだろうな」

「そうね。絵里子さんは勝ち誇ったような顔してたけど。和樹には申し訳ないけど、絵里子さんってちょっと頭悪そうね」

「悪そう、じゃなくて。頭が悪いんだよ」

 和樹がそう言うと夏海は声をあげ笑った。

「そんな女と何で不倫してるの? 意味わかんないし」

「何でかな。俺も頭おかしいんじゃないの」

 皮肉っぽく笑うと夏海は「ああ、おかしい」と呟きながらビールを飲み干した。

 そして夏海は天井を見上げる。ふう、と息を吐いた夏海は和樹に顔を向けた。

「絵里子さんの事が好きなら。いいよ」

「いいよ、って?」

「今年の7月で結婚6年だよね。この6年間、私の執着心と世間体だけで和樹と離れたくなかったの。今でも和樹の事は好きよ。でも和樹は私の事好きじゃないだろうし、きっとこれから先、私を好きになってくれる事はないんだってやっとわかったの」

 和樹は何も言わず夏海の話に耳を傾けていた。

「いつか沙織さんの事が思い出になって、私の事を好きになってもらえれば……って思ってたけど。あんな詐欺まがいな事した私を愛せるはずもないだろうし。それに許せないだろうしね。だから絵里子さんの事が好きなら、私、離婚してもいいよ」

「夏海は離婚したいの?」

 その問いに「うん」と小さく頷き、「……言い訳はやめるわ。ごめん。絵里子さんの事が好きとか嫌いとか、そういうの関係ない」

 夏海はそう言うと顔を上げ真っ直ぐに和樹を見つめた。

「私が離婚したいの」
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