伯爵令妹の恋は憂鬱
腕を掴まれ引っ張られたと思った瞬間、トマスの手がマルティナの顎を持ち上げた。
唇に何かが触れ、“好き”の二文字が、吸い取られる。
腰には彼の大きな手、向き合って抱きしめられてすっぽりと包まれる。固い胸がマルティナの柔らかい胸とぶつかる。
(……キス?)
起きたことが信じられずに、マルティナは瞬きを繰り返した。トマスの閉じたまつげが見えて、胸の奥が熱くなる。
腰を撫でる手が、いつもと違う。支配するような強い力、体の丸みを確かめるような手の動き。戸惑いながらも、唇が離れていくのを感じて、反発するように自分から顔を近づけた。
(信じられない。どうして? でも離れたくない)
背の高いトマスにしがみつこうとすれば、マルティナはつま先立ちになり、支えきれない体が震えて歯がぶつかる。
それでも離れたくなくて、両手で彼の服をしっかりと握り締めた。
永遠のように感じたキスの時間は、実際にはほんのわずかだったのだろう。
離れていくときに、耳元で名前を呼ばれた。
「……マルティナ」
敬称のつかないそれに、マルティナの心臓は今までになく大きく跳ねた。
顔が見れない。でも見たい。
葛藤の末に顔を上げれば、トマスは耳まで赤く染めたまま、目をそらしていた。
肩を支える手が離されて、へなへなと力が抜けたマルティナは地面にお尻をついた。
「……だから、離れないといけないんですよ」
ぼそりといったトマスは、彼女の髪飾りを触った。
「トマス?」
「笑っていてください、ずっと」
「トマス、待って」
トマスが走り出し、馬のもとへと向かったかと思うと、一瞬の動作で馬上の人となる。