伯爵令妹の恋は憂鬱
「待って、どこに行くの? いかないで」
腰が抜けたように座り込んだまま、マルティナは大きな声を出した。
「あなたの……せを……祈ってます」
馬の足音と重なって、よく聞こえなかったトマスの最後の言葉は、マルティナの幸せを願うものだった。
そしてそれは、トマス自身がかなえてくれるわけではない意思表示でもある。
「待って。行かないで。どうして?」
小さくなっていく馬の背を、マルティナは濡れた視界で見送った。
しばらくその場にうずくまって泣いていたら、ローゼがそばに駆けつけてくる。
「こんなところにずっといたらお体が冷えますわ。……お風呂に入りましょうね」
「ローゼ。……トマスが」
「……今はそのことはお忘れください。さあ」
「忘れられるわけない! どうして? 従者をやめるからって、いなくならなくてもいいじゃない。どうしてなの?」
「マルティナ様、落ち着いて」
「だって私、トマスがいないと……トマス……っ……うっ」
ローゼが、悲しそうな顔をしながら、マルティナの体を押さえる。
地面を殴りつけた彼女のこぶしは、黒く汚れ、ドレスも泥だらけだ。
マルティナはまるで正気を失ったかのように泣くのをやめられなかった。体を洗われている間も、ベッドへ寝かされてからも、涙は枯れることを知らない。その日は、気を失うように眠りについた。