伯爵令妹の恋は憂鬱


「……マルティナ。起きるんだ。屋敷に帰るぞ」


無理やりベッドから彼女を連れ出したのは兄だ。眉をひそめた彼の表情を見ていると胸が痛い。


「お兄様」

「突然トマスを引き離したのは悪かった。けれど、今はこうするしかないんだ。ちゃんと現実を見ろ、マルティナ」


現実とは何だろう。
トマスがいない屋敷で、クレムラート家の令嬢として暮らすこと?
いずれ、兄の言う相手と結婚して、家のためにつくすこと?
そんな現実なら、いらない。

持ち上げられた腕は、手を離されたとたんにずるりと落ちる。


「……ローゼ、マルティナを着替えさせてくれ」


生気の抜けたマルティナの顔を悲しそうに眺めた後、フリードはローゼにそう言いつけ、部屋を出た。
兄にかけている面倒を思えば、反抗する気にはならない。
動くことを拒否する体に鞭打って、言われた通りにドレスに着替え、言われた通りに荷造りをする。

細工をしてトマスに渡そうと思っていた皮ひも。加工さえできないうちにトマスはいなくなってしまった。
クマのぬいぐるみの首にリボンのように巻き付け、これも持っていこうと決める。
見るたびに泣きそうになるけれど、最後のトマスとの思い出だと思うと手放したくなかった。


(もういっそ、何も考えられ無くなれば楽なのに)


マルティナはぬいぐるみを抱きしめながら考えた。

人が生きていて楽しいのは、喜びが悲しみより勝るからだ。
愛する人にキスをされることがあんなに幸せだと知ってしまった今は、政略結婚に幸福など感じられるはずもない。

それでも、マルティナは兄を裏切りたくはなかった。たった一人になった自分を、自分の不利益になるとわかっていて見捨てずにつれてきてくれた人だ。
兄のために、生きてだけはいこう。そして兄夫婦にとって自分の存在が邪魔になるころ、修道院に行こう。
思い出だけを抱いて生きるには、それ以外に道はない。


カスパーら別荘の使用人に見送られ、マルティナは馬車に乗り込む。笑顔を作ろうとしたけれどできたかどうかはわからない。ローゼの心配そうな視線を感じながら、マルティナは目を閉じた。
もう何もしたくなかった。


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