伯爵令妹の恋は憂鬱
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思えば、トマスはいつも気持ちを汲んで先回りしていてくれた。
クレムラート邸で暮らしていた時から、彼はマルティナのやりたいことを、いつも無理のない範囲に区切ってやらせてくれていたのだ。
そうしてくれていたということに気づいたのは、実際に自分がやりたいことに挑戦して、疲れ切って眠るようになってからだ。
トマスが従者じゃなくなり、自分の意思を押し通すことができるようになってから、マルティナは彼が尽くしてくれた気遣いを思い知る。
同時に、これだけ気配りができるのだから、彼はマルティナの従者じゃなければ、もっと早くに出世していただろう、とも思うのだ。それはマルティナの中で、不安の種のひとつになっていた。
「あ!」
マルティナはトマスの姿を見つけて駆け出す。前を歩く彼はマルティナのことには気づいていない様子だ。
「トマス、待ってください」
トマスは振りかえらない。不安に駆られて足を速めるけれど、トマスのほうがコンパスが長く速度も速い。
追いつけない。それどころか、どんどんトマスが小さくなる。
「待って、トマス」
振り向いたトマスは、もう表情が読めないほど遠くにいる。なのに、声だけははっきりと聞こえた。
「やっぱりあなたとは一緒の速度で歩けない。どこまでもお嬢様で、なにも出来ないんだから」
彼の口から出たとは思えない辛辣な言葉に、マルティナは心が引き裂かれそうだった。
トマスはすぐにまた前を向いて行ってしまう。
追いつきたい。追いつけない。トマスの影は小さくなるばかり。
……もう振り向いてもくれない。
「……待ってっ」
マルティナは手を伸ばして、必死に叫んだ。