結婚しても恋をする

スーツの胸元が眼前に迫り軽く抱き留められたと認識すると、初めて間近に寄ったあの時の匂いが鼻腔を掠める。

「……あんなんなぁ、その上で昇給も考えてくれたら嬉しいって下心やで? 何騙されてんねん」

頭上から降ってくる低い声に、停止しそうな思考を呼び戻す努力をした。
嘘。何が起こったの?

「騙されてなんか……っ」

見上げると、あの夜のような熱を孕んだ瞳と視線が交わってしまう。
影が落ちた顔は切なそうに眉を歪め、わたしを見下ろしている。

──まずい、何かおかしな空気だ。

状況を把握したと同時に、既に彼の手中に囚われ逃げられない事態を自覚し青ざめる。
絡まり合う粘度を持ったような目線を逸らせずに、轟音を立てている心音を呪った。

駄目駄目駄目駄目駄目

訴え掛けて来る理性は鼓動の音に掻き消されそうで、接近した課長の目尻に刻まれた皺が映り込むと、本音が心の奥から浮かび上がった。

──本当に1ミリも、こうなることを望まなかったの?

強ばらせた身体は、この人を拒むことが出来ない。
咄嗟に瞼を閉じてしまうと、顔の前に息遣いを感じ取った。

重なってしまった唇は、郷ちゃんとは全然違う男の人の匂いがした。

なに、やってるのわたし
キス……した!?

事の深刻さをやっと理解して見開いた目は、瞬きを忘れてしまったかのように繰り広げられる光景が現実とは信じられずに硬直していた。

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