そしてあなたと風になる
クレセント
翌日の16時。

櫻木コーポレーション本社の玄関前に赤のミニバンが停まった。

ロータリー中央にある、タクシー待ちのベンチに腰かけて本を読んでいた千尋は、車の停車音を聞きつけると、ゆっくりと立ち上がった。

「お待たせしました。」

まひるは運転席から降りて、千尋に駆け寄った。

「いや、時間通りだよ。」

千尋は当然のように右手を差し出して、まひるから車の鍵を受けとる。

「それじゃあ、行こうか」

千尋は少し緊張しているのか、耳を赤くして横を向いた。

「はい!」

二人と一匹を乗せた赤のミニバンは、横浜に向けて走り出した。

道中、二人は、今回撮影する予定のフレームについて話をした。


目的地である、横浜港を見下ろす丘の上の公園に到着したのは、夕日が水平線に沈もうとしている頃であった。

まひるは、子猫の"ちいちゃん"を千尋に預けると、目的とする風景のフレーミングをはじめた。

一眼レフカメラを首に下げ、ビデオカメラのスタンドとライト、確認用のノートパソコンをセッティングした。


「千尋さん見てください。三日月ですよ。」

千尋がまひるの指差す方向を見ると、

薄紫の空に、銀色の三日月と金色に光る金星が浮かんでいた。

「ちいちゃんをその遊具の上に乗せてもらってもいいですか?」

象の形をした滑り台は幼児用のもので1mぐらいの高さしかないが、子猫には結構な高さに感じるらしく、カタカタと体を震わせている。

「逃げ出さないか?」

「ちいちゃんは怖がりだから大丈夫ですよ、たぶん,,,。」

まひるが自信無さそうに、でも、やはり確信したように答えた。

「千尋さん、これを持っててもらえますか?」

まひるは、子猫が気に入っている猫じゃらしを千尋に渡し、カメラを構える。

「そのまま、ちいちゃんの興味を引いてみて下さい。」

千尋は、車の中でまひると打ち合わせたように"子猫が月を見上げるような"アングルになるように、猫じゃらしを動かしてみる。

「この角度でいいか?」

最初は、震えていた子猫も、暗さに目が慣れてきたのか、だんだんと猫じゃらしの動きに合わせて、首を動かすようになった。

動物は気分が変わりやすく、人間の思う通りには動いてくれない。

百花と打ち合わせた日とその翌日、まひるは近所の公園にちいちゃんを連れ出し、同じような状況で遊ぶ訓練をしたらしい。

そのおかげか、数分程度の動画と、数十枚のフレームを撮ることができた。


空はだんだんと群青色に変わっていく,,,


「次は、千尋さん、ゆっくりとちいちゃんを抱き上げてください。」

これも移動中の車内で頼まれていたことだ。

同じアングルで、動画と静止画を撮影する。

「千尋さんにはちいちゃんを大人の女性に導くナイト役をしてもらいます。」

「もちろん後で画像を加工して、ナイトを2次元化しますから、千尋さんの顔は出ませんよ。」

千尋のコンセプトはこうだ。




ーいつも窓辺から月を眺めていた子猫が、意を決して外に出る。

外の暗闇は子猫を不安にさせるばかり。

不安に震える公園の片隅で、子猫は人間の男性に助けられる。

男性の優しさに触れたことで、子猫の夢は希望へと変わる。

子猫は月に祈る。

三日月はだんだんと満月に変わり、

勇気を出した子猫は、月の魔法で大人の素敵な女性に生まれ変わるー



ありがちなシンデレラストーリーだが、"まひる"のデザインセンスと映像技術をもってすれば、個性的で彩り豊かなコマーシャルが出来上がるはずだ。


これで、子猫の部分の撮影は終わり。

ミルクを飲ませてあげたらゲージに戻すことにした。



周りはすでに真っ暗になり、公園の街灯と月明かりだけが、眼下に広がる海岸沿いの景色に彩りを添えていた。


「次は、子猫が女性に変わるフレームだな。」

「 はい、千尋さん、カメラお願いしますね。」

千尋は、大学時代にカメラに凝っていた時期がある。父親が写真好きであったこともあり、子供の頃からカメラに慣れ親しんでいた。

一眼レフの操作は意外とセミプロレベルでであった。



まひるは、子猫が座っていた滑り台の天辺に腰かけると、

「千尋さん、そっちのビデオのスイッチを押してから、カメラの連写を始めてくださいね。」

と言って、自ら演技を始めた

人間になっていく子猫ー


千尋はビデオの録画ボタンを押し、もう一方で一眼レフカメラを構える,,,。



ーまひるは四つん這いの姿勢から、両手を空にあげると、いとおしそうに月を見上げた。

遠くに愛しい人を見つけた、という表情を見せた刹那、まひるは、三日月が浮かぶ空に向かって大きくジャンプした,,,。


まひるのしなやかな体が、一瞬静止したかのように空に舞って弧を描いた



千尋は、その幻想的な動きに、
夢中でシャッターを押した。



無事、地面に着地したまひるは、照れ臭そうにしながらも笑顔で千尋に近づき、その手の中にあるカメラの再生画面に顔を近づけている。

「素敵に撮れてますね。千尋さんて才能あるかも。」

千尋の横にぴったりと寄り添い、写真の出来具合を確認するまひる,,,。

自分に甘えているのでは、と錯覚するような彼女の態度に、千尋の胸はしめつけられるように音をたてた。


「飛び込んだ先には、ナイトが待っていた方がいいんじゃないか」


「えっ?」


耳にかかる千尋の吐息に耐えきれず、まひるの声がうわずった。

「ほら、やってみよう。その方が絶対に絵面はいいから。」


千尋は、強引に一眼レフカメラをまひるから奪い取り、

滑り台のところまで、ぐいぐいとまひるの腕を引いて移動した。

スタンドに置いた一眼レフカメラを覗き込んで、所定の場所に設置する。


撮影したい尺に、連写・セルフタイマーモードに設定しておく。

千尋も定位置に着くと、


「おいで」


「まひる」


まひるを待ちわびるように、両手を広げるその姿は、本物の王子さまのように輝いて見えた。

まひるは笑顔で月を見上げた後、

「ありがとう」

とつぶやいて

撮影開始の合図を告げる、カメラの点滅を見た次の瞬間、

まるで猫のように
千尋の大きな胸に飛び込んだー



少し冷たい風が、抱き合っている二人の回りを輪舞する。


まだ、恋を自覚し始めた二人には、言葉はなんの意味もなさない。


見つめ合う二人は、どちらからともなく唇を寄せていた。


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