薄羽蜉蝣
 とん、と目の前に冷奴が出された。
 酒は徳利一本だけ。
 与之介は口を尖らせて鶴橋の親父を見た。

「これだけかよ」

「食い物は、おいおい出しやすよ。でも酒はこれだけです」

 この前飲み過ぎて潰れたので、控えろということらしい。
 不満顔ながらも、与之介は黙って箸を動かした。

「いいじゃねぇですか。このまんま、しらばっくれてりゃ、娘っ子も傷付かずに新宮様のお傍にいられるってことでしょう」

「そんなことできるかよ。父親を殺した男に気を許したとあっちゃ、二重に傷付く。こういうことは、黙ってたって何かの弾みでばれるもんだ」

「でも娘っ子のほうは、今はもう下手人を恨んでねぇんでしょう?」

 与之介は猪口を勢いよく空けると、どん、と机を叩いた。

「実際のところはわからん。優しかった父親が盗人で人殺しと知ってからは、下手人を殺してやりたい、というほどの強い気持ちはなくなっただろうが。でもすっかりそういう気持ちがなくなったわけではなかろうよ。やっぱり佐奈にとっちゃ、優しい父親でしかないんだしな」

「だからって、自ら恨みを買わなくても」

「早いうちに、佐奈が俺の正体に気付いて離れて行ってくれることを願うぜ」

 そういう与之介は辛そうだ。
 隠そうと思えば隠したまま、今よりもっと佐奈に近付くことができるだろうに。

「それでも、ご自分から明かすことはしないんですね」

 結局与之介には勇気がないのだ。
 佐奈のように、好いた人間に自ら過去を曝け出す勇気がない。

 これ以上佐奈に関わるべきではない、と思うものの、自ら離れることはしたくない。
 できる限り傍にいたい、と思ってしまうのだ。

「……あわよくば、とでも思ってるのかね」

 自嘲気味に、与之介が笑う。
 そんなことなどあるわけないとわかっている。

 そして自分で言ったように、こういうことは、思わぬことで相手に知れることとなるのだ。
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