薄羽蜉蝣
第十章
 次の日、早速親父は店の前に大八車を用意した。
 車には大きな酒樽が一つ積んである。

「さ、さっさと移動しちまいましょう」

 言うなり与之介を、ぐいぐいと店の外に出す。

「おいおい、ちょっと待て。そんないきなり……」

「何言ってるんです。早くどこぞに行きたいっつってたのは新宮様ですぜ。さ、善は急げだ。さぁさぁ」

 渋る与之介を大八車に据えた酒樽の中へ促す。
 思い切り与之介が怪訝な顔をした。

「さ、中に入ってくだせぇ」

「何故だ」

 訝しく思うのも当然だ。
 酒樽の中に詰め込まれるなど、普通に考えていいことが起ころうはずがない。

「万が一ですよ。この辺は、まだ前の長屋の目と鼻の先だ。新宮様もしょっちゅう通ってた通りですぜ。前の長屋のガキどもにでも見つかっちゃ、またややこしいでしょう」

 なるほど、と思うが、何も酒樽でなくてもいいではないか。

「なら駕籠でもいいだろ」

「何を贅沢仰ってるんで。駕籠屋なんざ、この辺りにゃありませんや。さぁお早く!」

 どかっと背を押され、与之介は酒樽に突っ込んだ。
 ついでに頭を打ち、昏倒する。

「あ~あ。全くこの程度で昏倒してて大丈夫かね。ほんと、早く元に戻って欲しい」

 まぁ面倒がなくなっていいや、と酒樽の蓋を閉め、親父は大八車を曳いて、鶴橋から出て行った。
< 55 / 63 >

この作品をシェア

pagetop