君のいた時を愛して~ I Love You ~
二十二
 朝を迎えたペンションは、トーストと色がついただけの風味も何もないコーヒーと紅茶を朝食として出してくれた。
 一応、値段の内と、俺とサチは文句も言わず用意されたトーストに瓶の底に申し訳なさそうに残っているジャムと乱暴に刃物で切られて横倒しになっているバターを分け合って塗った。
 当然、コーヒーも紅茶もお代わりを欲しいと思うようなものではなく、最後のパンを胃に流し込むのに利用すると、俺たちはすぐに部屋に戻り、少ない荷物を手にペンションを後にした。
 実際、あの男がどんな手を使って俺を探そうとするかわからなかったが、幸か不幸かクレジットカードを持っていない俺とサチの行動は全て現金決済だから、足がつく心配はなかった。
 そこまで考えてから、俺は自分が大人として当然の権利を行使して、サチと結婚したというのに、まるで家でした未成年か、犯罪者のようにあの男に怯えている自分に気が付いた。
「俺って、バカだ・・・・・・」
 俺が思わず声に出して言うと、サチが不安そうに俺の事を見つめた。
「コータ、今から役所に行って、すぐに離婚届だそう」
「えっ?」
 俺は驚いてサチの事を見つめた。
「サチ、俺との結婚、嫌になっちゃったのか?」
 まさか、俺の不用意な一言が原因だと気付いていない俺は、てっきりあの安くてボロく、サービスが最低なペンションで迎えた結婚最初の夜の不手際でサチの気持ちが変わってしまったのではないかと焦りまくった。
「違うよ、コータが言ったんじゃない。バカなことをしたって・・・・・・」
 サチの寂しそうな一言に、俺は初めて二人の会話がかみ合ってなかったことに気付き、安心もした。
「ごめん、サチ。そういう意味じゃなかったんだ」
 俺は言うと、ちょうどあたりに誰もいないのを良いことに、立ち止まってサチをぎゅっと抱きしめた。
「ごめんサチ。俺、そういう意味で言ったんじゃないんだ。なんか、俺さ。あの男、俺の父親だって男から逃げることに必死でさ、自分がまるで犯罪者になったみたいな気持ちになってたんだ。本当なら、俺もサチも立派な大人だし。堂々と結婚して、幸せに暮らす権利があるのに。なんか、こんなどうしようもない逃亡生活みたいなことしちゃって。本当にごめん」
 俺が言うと、サチが俺の事をぎゅっと抱きしめ返してくれた。
「どこかで結婚指輪を買おう。あんな紙切れだけじゃなく、俺とサチが本当に結婚したことを大切にしたいから」
「コータ、ありがとう」
 サチが俺の唇に自分の唇を重ねた。
 一瞬触れあうだけのキスだったけれど、俺はサチからキスしてくれたことが嬉しくて、すぐにお返しのキスをした。
 それから俺たちは延々と続く坂を下った。

☆☆☆
 
 幸多の足取りは一向に分からず、あのボロアパートにも昨晩は戻ってこなかった。
 それと同時に、あのアパートで同棲していた女も姿を消しているという報告が入ってきていた。航は苛立ちを隠せないまま、仕方なく薫子との朝食の席に着いた。
「幸多さんは?」
 薫子の問いに、航は頭を横に振った。
「女と共に姿を消したらしい」
「まあ、どなたかのお若い頃と同じですわね」
 薫子の嫌味に航は鋭い視線を送ったが、その程度で怯む相手ではない。
「こういうのを血筋と言うのではなくて? 駆け落ちをして、相手を孕ませた父親と、父親を知らずに育った息子が父の手から逃れて駆け落ちをする。どちらも、似たような状況ですわね」
 薫子の言葉は航の神経を酷く逆なでしたが、ここで火に油を注ぐような失言をするつもりは航にはなかった。
 実際、第三者である薫子の立場から見れば、この状況はまさに三十年近く前に航が置かれた状況と似通って見えるのかもしれない。
 両親から薫子との見合いを申し渡され、事実上、形式的な見合いを経て交際、婚約、結婚と道付けられていた航には、洋子と逃げる他はなかった。そうすれば、父の会社を継ぐという社会的安定と地位、名誉は得ることが出来たが、何よりも愛するものを失わなくてはならないという、絶体絶命、まさに王手をかけられた状態だった。だから、航は躊躇する洋子の手を無理に引っ張って駆け落ちしたのだった。
 場末の安宿に夫婦として部屋を取り、刹那的に愛し合った。これですべてが終わってしまうのではないか、世界が終わるのを待つだけのような、そんな刹那的な愛だった。それでも、航には後悔はなかった。親の決めた気に入らない女と結婚することなど考えられないくらい、航は洋子を愛していた。そして、洋子も航の事を愛していたからこそ、生まれて来る子供のためにも、航の親との和解を望み、それが叶わないとわかった後は、何も言わず身を引き、一人で幸多を産み、育て、そしてひっそりとその命を燃やし尽くしたのだ。
 もし今、幸多が自分と同じ状況にあるとしたら、やはり同じことをするのかもしれないと、航は思った。しかし、洋子とは違い、幸多を手玉に取っている女には後ろ暗い過去も、表沙汰にできないような家族もある。それを考えると、一刻も早く幸多をあの女から引き離し、守らなければいけないと、航はただそれだけを思った。
 もし、幸多の相手が洋子のような女性だったら、航も幸多を祝福し、二人が所帯を持つことを反対するつもりはなかった。しかし、あの女だけは認めるわけにはいかない。幸多の妻になるという事は、渡瀬の妻になるのだから、あんな女に渡瀬の家の敷居を跨がせるわけにはいかない。
 考えている間に、航のスクランブルエッグの湯気が消え、卵が冷え切っている気配がした。
「旦那様、新しい物をお持ちいたしましょうか?」
 声をかけられ、我に返った航は、何も口にしないまま席を立つと、そのまま玄関を目指した。

☆☆☆

 駅に着くと行き先を決めるために路線図とにらめっこをした。
「きっと、あそこにはデパートがあると思う」
 サチが行き先を選び、俺たちは切符を買うと電車が来るのをホームで待ちながら、大将の店に電話を入れた。
「すいません、鰆です」
 手電話に出て来た大将に名乗ると、大将は『おお、ハネムーンは順調か?』と問いかけてきた。
「あ、あの、その事なんですけど・・・・・・」
『悪いと思ったが、昨夜、店の連中には鰆と小女子ちゃんが結婚して、一週間ハネムーンで休むことになったって発表したぞ』
 大将の言葉に、俺は耳まで真っ赤になった。
『わるいが、うちは有給がないから、二人とも、お祝いの金一封はだすが、休んでる間は給料なしだからな』
 大将の言葉に、俺は『ありがとうございます』とお礼を言った。
 二人そろって大将の店をクビになったら、それこそ明日から食べていくのにも困ることになる。
『小女子ちゃん、話せるか?』
 大将に言われ、俺はサチに電話を代わった。
 サチは大将と嬉しそうに話をしていたが、ちょうど電車が来たので、サチはお礼の言葉を繰り返しながら電話を切った。


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