黎明センチメンタル
少し鼓動が早くなった。
触れていた文庫からそっと指を離して、息を吸う。吐くことを忘れると鼓動は更に早くなる。
一歩、指が痺れる感覚に襲われた。
二歩、足がふわふわと縺れる。
三歩、綺麗な名前の持ち主にやっと会える。
先にレジへと戻った立岩さんの後を追いかけて、床のタイルを凝視した。
「影ちゃん、新しく入った日下さんだよ」
そう紹介してくれたタイミングで顔を上げると、先程入口で出会った男の子が立っていた。
脳内にぴかぴかと光っていた名前が音を立て崩れていく。
女性だと思った名の持ち主は男の子。
綺麗な名前とは真反対。
背は私より少し高いくらいで、髪は少し跳ねていた。
「初めまして、日下加歩です」
イメージと違い過ぎて驚いたけど、気を取り直して頭を下げたが返事は無い。
「影ちゃん、挨拶」
私へかける声より数トーン低い声で立岩さんが促すと蚊の鳴くような声が返ってきた。
「……影内です」
それ以上、うんともすんとも言わぬ彼を見て立岩さんが溜息を吐いた。
「僕ちょっと事務作業あるからレジ頼むね」
立岩さんはさっとレジを抜け出し、私と彼の二人きり。
さっきまでちらほらいたお客は急に居なくなって、無音の世界になってしまった。
「影内さん、って綺麗な名前ですね」
日中の騒がしさに慣れてしまったのか、静かな空間に負けて口を開く。
それは大きな間違いだったのかもしれない。
「……僕は別にそうは思いません」
褒めたのに、否定をされた。
普通に暮らしていてそんな経験をした事が少なかった私は面食らう。
「……名前嫌い?」
私と同じ位の年頃だろうと見て、敢えて敬語を取っ払うとレジ内に置かれたパソコンを睨んだまま彼が言う。
「嫌いと言うか、……不釣り合いだなぁとは思います」
「ふーん、そっか。私も自分の名前あんまり好きじゃないんです」
口が羽根のように軽くなる。
初めての残業に緊張の糸が切れたのか、同じ位の年の人だからか、弾みもしない不毛な会話をたらたらと続ける。
「研修の時に、影内さんのお名前見てすごい綺麗だなぁって思ったんです。今日までずーっと女性だって思ってたから男の人でびっくりしました」
思っていた事を包み隠さず話すと、出勤してから忙しなく動いていた彼の手が止まった。
「そう言われるのが嫌だから、自分の名前が嫌いなんです」
場が荒む。
また動き出した彼の手。そこから奏でられる音は居心地を悪くさせる音みたいだった。
これ以上話すと、また彼の触れられたくない場所を触れてしまいそうで何故か怖くて黙って横に立っていた。
あぁ、私はやっぱり時間泥棒だ。
悲しくて、目の奥が熱くなる。こんな気持ちになるなんて、おかしい。
これからは残業なんて断ってしまおう。
彼のエプロンの紐は縦結び。
そこをじっと盗み見て、時刻は十七時三十分を少し過ぎた。
会話がぶつりと切れて、徐々にお客が現れだした。淡々とレジをこなしていると入口から凄い勢いで誰かが入ってきた。
そんなに急がずとも商品は逃げやしないのに。
ぼんやり考えていると、甘い匂いが広がった。
「影ちゃんおはよう」
猫撫で声とはどんな声か分からない。けどきっとこんな声なんだろう。そう思わざるを得ない声に首筋が少し痒くなる。
「……おはようございます」
ここの店員は、新人は見えない素振りをする習わしでもあるのだろうか。
見慣れないであろう私の横を通り過ぎ、レンタルスタッフの方へ歩くのは、先程凄い勢いで入ってきた人だった。
甘い匂いの主は彼女。
そしてきっと彼女は、安倍さん。
「安倍さん、遅刻何回目ですか」
ゆらりと現れた立岩さんの声に振り向いた安倍さんが顔をクシャッとして笑う。
「ごめんね!けどほら、ちゃんと来た!偉いでしょ」
胸の辺りまで伸びた黒髪を揺らして言うと呆れたように立岩さんが私の方を向いた。
「こちら安倍さん。安倍さん、新人の日下さんです。今日残業してくれたんですよ」
「日下です、よろしくお願いします」
こんな一言も言い過ぎて耳タコならぬ口タコだ。
甘い匂いは変わらず漂うのだけど返事が無くて視線を向けると安倍さんは彼の側に居た。
「影ちゃんまたエプロン縦結びじゃん!もぅ!一人じゃ何にも出来ないね」
「……すいません」
私の声など、聞こえていないのだろう。
仮に聞こえていたって、興味が無いのだろう。
安倍さんは、彼のエプロンを綺麗に結ぶ事の方が大切なんだろう。
いささか腹が立つけれど何も言えずに立ち尽くしていると立岩さんが怒気を孕んだ声を出した。
「安倍さん!!」
にこやかにエプロンの紐を弄っていた手を止め、こちらを向いた安倍さんの目は冷ややかなものだった。
「挨拶くらいちゃんとしましょうよ」
立岩さんがそう言うと、小さな声で安倍さんが反応する。
「よろしく〜」
新人が腹を立ててはならない。
心の何処かでそう思ったのだけど、それは隠し切れなくて私は静かにレジを出た。
「お疲れ様でした」
ほんの少しの反抗心。
そちらがそうなら、こちらもこうする。
残業なんて、もう絶対にしてやらない。
そう思って家の扉を開けたのは十九時よりもちょっと前。
触れていた文庫からそっと指を離して、息を吸う。吐くことを忘れると鼓動は更に早くなる。
一歩、指が痺れる感覚に襲われた。
二歩、足がふわふわと縺れる。
三歩、綺麗な名前の持ち主にやっと会える。
先にレジへと戻った立岩さんの後を追いかけて、床のタイルを凝視した。
「影ちゃん、新しく入った日下さんだよ」
そう紹介してくれたタイミングで顔を上げると、先程入口で出会った男の子が立っていた。
脳内にぴかぴかと光っていた名前が音を立て崩れていく。
女性だと思った名の持ち主は男の子。
綺麗な名前とは真反対。
背は私より少し高いくらいで、髪は少し跳ねていた。
「初めまして、日下加歩です」
イメージと違い過ぎて驚いたけど、気を取り直して頭を下げたが返事は無い。
「影ちゃん、挨拶」
私へかける声より数トーン低い声で立岩さんが促すと蚊の鳴くような声が返ってきた。
「……影内です」
それ以上、うんともすんとも言わぬ彼を見て立岩さんが溜息を吐いた。
「僕ちょっと事務作業あるからレジ頼むね」
立岩さんはさっとレジを抜け出し、私と彼の二人きり。
さっきまでちらほらいたお客は急に居なくなって、無音の世界になってしまった。
「影内さん、って綺麗な名前ですね」
日中の騒がしさに慣れてしまったのか、静かな空間に負けて口を開く。
それは大きな間違いだったのかもしれない。
「……僕は別にそうは思いません」
褒めたのに、否定をされた。
普通に暮らしていてそんな経験をした事が少なかった私は面食らう。
「……名前嫌い?」
私と同じ位の年頃だろうと見て、敢えて敬語を取っ払うとレジ内に置かれたパソコンを睨んだまま彼が言う。
「嫌いと言うか、……不釣り合いだなぁとは思います」
「ふーん、そっか。私も自分の名前あんまり好きじゃないんです」
口が羽根のように軽くなる。
初めての残業に緊張の糸が切れたのか、同じ位の年の人だからか、弾みもしない不毛な会話をたらたらと続ける。
「研修の時に、影内さんのお名前見てすごい綺麗だなぁって思ったんです。今日までずーっと女性だって思ってたから男の人でびっくりしました」
思っていた事を包み隠さず話すと、出勤してから忙しなく動いていた彼の手が止まった。
「そう言われるのが嫌だから、自分の名前が嫌いなんです」
場が荒む。
また動き出した彼の手。そこから奏でられる音は居心地を悪くさせる音みたいだった。
これ以上話すと、また彼の触れられたくない場所を触れてしまいそうで何故か怖くて黙って横に立っていた。
あぁ、私はやっぱり時間泥棒だ。
悲しくて、目の奥が熱くなる。こんな気持ちになるなんて、おかしい。
これからは残業なんて断ってしまおう。
彼のエプロンの紐は縦結び。
そこをじっと盗み見て、時刻は十七時三十分を少し過ぎた。
会話がぶつりと切れて、徐々にお客が現れだした。淡々とレジをこなしていると入口から凄い勢いで誰かが入ってきた。
そんなに急がずとも商品は逃げやしないのに。
ぼんやり考えていると、甘い匂いが広がった。
「影ちゃんおはよう」
猫撫で声とはどんな声か分からない。けどきっとこんな声なんだろう。そう思わざるを得ない声に首筋が少し痒くなる。
「……おはようございます」
ここの店員は、新人は見えない素振りをする習わしでもあるのだろうか。
見慣れないであろう私の横を通り過ぎ、レンタルスタッフの方へ歩くのは、先程凄い勢いで入ってきた人だった。
甘い匂いの主は彼女。
そしてきっと彼女は、安倍さん。
「安倍さん、遅刻何回目ですか」
ゆらりと現れた立岩さんの声に振り向いた安倍さんが顔をクシャッとして笑う。
「ごめんね!けどほら、ちゃんと来た!偉いでしょ」
胸の辺りまで伸びた黒髪を揺らして言うと呆れたように立岩さんが私の方を向いた。
「こちら安倍さん。安倍さん、新人の日下さんです。今日残業してくれたんですよ」
「日下です、よろしくお願いします」
こんな一言も言い過ぎて耳タコならぬ口タコだ。
甘い匂いは変わらず漂うのだけど返事が無くて視線を向けると安倍さんは彼の側に居た。
「影ちゃんまたエプロン縦結びじゃん!もぅ!一人じゃ何にも出来ないね」
「……すいません」
私の声など、聞こえていないのだろう。
仮に聞こえていたって、興味が無いのだろう。
安倍さんは、彼のエプロンを綺麗に結ぶ事の方が大切なんだろう。
いささか腹が立つけれど何も言えずに立ち尽くしていると立岩さんが怒気を孕んだ声を出した。
「安倍さん!!」
にこやかにエプロンの紐を弄っていた手を止め、こちらを向いた安倍さんの目は冷ややかなものだった。
「挨拶くらいちゃんとしましょうよ」
立岩さんがそう言うと、小さな声で安倍さんが反応する。
「よろしく〜」
新人が腹を立ててはならない。
心の何処かでそう思ったのだけど、それは隠し切れなくて私は静かにレジを出た。
「お疲れ様でした」
ほんの少しの反抗心。
そちらがそうなら、こちらもこうする。
残業なんて、もう絶対にしてやらない。
そう思って家の扉を開けたのは十九時よりもちょっと前。