ブロンドの医者とニートな医者
 ワインの味はよく分からない。だけど、高い物をただで食べられるんだし、と思うと最後の方少し余裕が出てきたところで、飲めるだけ飲んだ。

 誰も止めないし、自分でもそれほど飲んだとは思わなかったし。

 だから、今、妙に良い気分だ。テンションも上がっている。

「これから、どうします?」

 来た時とは大違いで、静かな廊下でも話しかけられる。

「帰って寝る」

「また仕事ですか?」

「…お前もだろ」

「…でも明日までまだ時間があります!」

「…あそう」

 ホテルのエントランスまでくると、大河原が右手を挙げたので、

「歩いて帰りましょうよ!」

 と、大きな声で提案する。が、早くも、タクシーが目の前に停車してしまった。

 運転手がさっと降りて来る。

「あ、すみません」 

 大河原は、それを断るように、右手を小さく挙げた。

「すみません、間違いです」

 そして、颯爽と歩いてエントランスから出ようとする。

 運転手は車をバックさせなければならなくなった手間に気づき、無表情になったので、奏はそれを見ないふりをして、小さく頭を下げて、大河原に続いた。

「すみません! タクシー停めてもらったのに…」

「……」

 そんなこと、どうでもよさそうに、胸ポケットから煙草を取り出すと、一本くわえた。

 100円ライターで火をつけ、煙を噴き上げる。

 ここから歩いて帰るには遠いが、病院まで本当に歩いて帰るつもりなのかどうか、今更疑問に思った。

「大河原先生」

「……」

 何の返事もない。

「大河原先生ってゆーのも変ですか? 私の先生じゃないし」

 奏はおかしくなって笑ったが、大河原は、何も言わずにただ煙草をふかしている。

「おおかわらせんせー」

「、何?」

 一度立ち止まって、じろりと睨んできた。だが、その口元は笑っている。

「先生って呼ばれるのってどんな気分なんですか」

 質問を聞くなり、大河原は前を向いて歩き始めた。

「いいな。先生。私だったら、奏先生、か……。なんか、先生なんて呼ばれても、先生みたいなこと、できませんって思っちゃいますよね」

「だな」

 珍しく同意したので、足が止まりそうになる。

「お前なら、そうだな」

 あ、そういうこと……。

「大河原先生……その……」

 彼が速足で歩いているので、それを制するように腕をつかんだ。

 だが、すぐに大きく振り払われ、心が一瞬で冷える。

「イアン・マクベス」

 奏は立ち止まった。

「………」

「お前は、そこに帰っとけ」

 体だけでなく、頭も心も固まった。

 だが、大河原はそのままどんどん歩き続けている。

 こちらの心を見透かした上で、制限をかけていたのだと思う。

 だから、追いかけてはいけない。

 そう思っていたのに、角を曲がって見えなくなった途端、猛ダッシュしてしまった。

 追いついて、息を吐いても、後ろなんか振り返ってくれない。

「………、………なんで……名前……」

 ようやくそれだけ言うと、足を止めてくれる。

「脳外でイギリス人なんか、何人もいるかよ」

 彼は、携帯用の灰皿に吸い殻をしまった。

「……」

 そういえば、自分で説明した。

「……」

 最近、ずっとイアンのことをないがしろにしていた自分に、突然罪悪感を抱いた。だけど、その心持ちが気持ち悪くて、そんなことはどうでもいいと思い切って、酔いのせいにして、奏の胸に飛び込んだ。

 引きはがされないよう、ジャケットを強くつかむ。

「酔ってるから、明日には忘れてる」

 そう言って安心させた。だが、上から降ってきたのは、驚くほど落ち着いた、大人びた声だった。

「酔ってないだろ。全然シラフじゃねーか」

 その言葉とは裏腹に、手が頭に触れた。暖かい手が、髪の毛を一度だけ撫でる。

「お前には帰るとこがある。ここじゃない」

 そして、つと突き放される。

「……」

 大河原は、まっすぐこちらを見据えた。

 奏は、先ほど軽く抱きしめられたような感触のせいで、思考が先走り、

「パン屋のナースの人は彼女なんですか」

 はっきりと、威圧をかけて聞いた。

「…ま、一緒に寝てるという概念ではそうだな」

 だったら、なんなの、今日の食事会は!?

 怒りそうになって、思い出す。

 そうだ……。お礼だ……。

「……」

 彼は何も言わずに、来た道を戻り始める。

 だが、もうそれ以上、奏の足がその後を追うことはなかった。







 無償にイアンに会いたくなってくる。

 午後23時半。

 当直じゃなかったら出るはずだと、電話を鳴らした。

 こちらから電話をかけるのは、久しぶりのことで、1か月くらいは余裕で時が過ぎてしまっている。
 
 10コールしても出ない。

 だけれども、酔いもあって、ヤケになって、もう一度コールを鳴らし続けた。

『……』

 15回目のコールでようやく出たが、無言だ。

「もしもし?」

 寝起きだろうなと思いだしたので、トーンを下げて、甘えた声を出した。

『……いや、退院は今月いっぱいはまだだって昨日言ったんだけどな。……ちょっと電話かかってきたから、それだけ出てすぐに行く。もしもし?』

 どうやらこちらも、ナースと会話をしていたらしき外科医は、それでも簡単に電話に出てくれる。

 今しがた、大河原に抱き着いていった自分の頭が急に重くなった気がした。

「……」

『もしもし?』

 次に行くところがあるから急いでいるのが声で分かる。あまり甘えてばかりもいられないと、奏はすぐに声を出した。

「まだ…仕事だよね……」

『うまくいけば7時には上がれるが』

 それはもちろん明日の朝7時の話だ。

「……」

『悪いが、後でかけなおしても構わないかな? どのくらい時間がかかるか分からないけど』

 急速に冷えていくものが感じられる。

「いいよ」

 ぶっきらぼうに言った。

 だけど、気づいてないと思う。

『また後で』

 医者なんて嫌い。


 このまま、浮気でもして帰ろうかと思う。

「………」

 いつも最後は、溜息しか、出ない。
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