ブロンドの医者とニートな医者

イアン先生


 その日の昼になってイアンから電話があり、今仕事が終わったと伝えられた。いつから働いていたんだろうかとも思ったが、聞く必要も感じず、夕方会う約束だけする。

 仕事は朝のうちから早く帰れる目途がついており、予定通り、定時で帰れる。日々の無駄な残業のおかげだ。

 パン屋の前を通ることもせず、そのままイアンのマンションに向かう。

 オートロックの高級マンションは、家賃いくらくらいなんだろうといつも思う。だけど実際値段を聞いたことはなく、すぐにその質問を忘れてしまうのだ。

 エントランスまで迎えに来てくれたイアンは、寝起きなようで、履いたばかりのジーパンにティシャツという姿だったが、それでも、ブロンドの髪の毛が見事にウェーブしてなびき、海外のファッション雑誌のモデルのようだった。

 マンションの入り口では、暗証番号を入れて、カードキーをかざせばエントランスのドアが開くのだが、部外者は中から開けてもらうしかない。

「ごめん。寝てたのに」

「今度から鍵を渡しておく」

「……」

 唐突にとんでもないことを言われた気がして黙った。

 イアンは、何も気にしないといった風に、エレベーターに先に乗り込み、ドアを抑えて待ってくれている。

 奏は、慌てて飛び乗り、その隣で一息ついた。

「昨日……忙しそうだったね」

「…いや」

 タイミングが悪かっただけなのだろうか。

「……」

 その、点灯する階番号を見ながら髪の毛を掻きあがる、横顔を見つめる。なんだか、いつもよりそっけない気がする。

 いや、それは私の方か……。

「今起きたとこ?」

「あぁ」

 エレベーターを降り、先に歩いたイアンが扉を開ける。

「あ、ごはんどうしよ……」

 玄関の中に入ったところで思い出した。これから夕食の時間だというのに、手ぶらでここまで来てしまった。

 あのナースなら、てきぱき買い物をして夕食ぐらいものの30分で作ってしまいそうな気がする。

「んっ!」

 突然唇を塞いできたと思ったら、強引に舌をねじ込んでくる。

 薄目でドアを確認した。玄関のドアはオートロックだから外から開くことはないし、ちゃんと締まり切っている。

「ん…」

 深く目を閉じた。目を閉じなければ、集中しなければ、イアンの名前を忘れてしまいそうで怖かった。

 そのまましばらく時間が過ぎ、一息ついたのは、ベッドの上だった。

 テレビを、それでも満足そうに見つめるイアン。奏は久しぶりの行為が、無事できてほっとしていた。

 上半身だけ体を起こし、まっすぐテレビを見つめるその横顔も、まるで聖画のようだ。

「……しばらく、仕事が忙しかったふりか?」

 予期せぬ一言に、体が硬直した。まさか、昨日のホテルディナーを見られていた!?

「…」

 視線を感じる。

「随分お預けをくらったものだ」

「……」

 いや、そんなことはない。イアンだって忙しい時はそれくらい連絡をしないと思うし、多分、今までもそんなことはいくらかあったはずだ。

「その……その。色々考えることがあって」

 頭の中で話を組み立てておく。嘘は言わないでいいように。

「……」

 イアンは黙ってテレビの音だけ消した。だが、画面はそのまま見つめている。

「その……その。その……あの」

「……」

「その。最初から言うとね。ちょっと前に会社の人と女子会したの。同じ部署の」

「……」

 何も言わないけど、もちろん聞いている。

「その……そこでね。コートジボワールに行く、海外出張があるらしいって話になって……。それはまだ、私は何も聞いてないし、誰も何も言わないから分かんないんだけど。

 前から勤めてる人が言うには、そろそろ今の課長と課内の誰か一人女子がコートジボワールに行くだろうって」

「……」

「それで……。その、私より3つ年上の人が律子さんっていうんだけど。その人が北大医大に勤めてるお医者さんが彼氏らしいんだけど、その……今海外行ったら、彼氏を取られるから絶対に行かない、行くくらいなら辞表書くって話になってね」

 なってはないが。

「……」

「私より1つ下の子は莉那ってゆーんだけど。あ、その子は父親がイギリス人だからハーフなんだけど。その子はまあ……今は彼氏いないから行くんだろうけど。まあ、入社1年だから選ばれないだろうし」

「……」

「私はどうするのって聞かれて。彼氏いないのって言われたから、いるって言ったら、どんな人って聞かれて。イギリス人で帝東医大の脳外科医だって言ったら、絶対遊ばれてるって言われてさ」

 自分でも少しおかしくなって、笑ってしまう。

「旅行の写真見せたら、一回みんなで会って遊びじゃないか確かめてあげるって言われてさ」

「………」

 まるで聞いていないような表情にもとれるが、そんなはずはない。

「……私は、もし、海外に行けって言われたら行くって答えたの」

「……」

「それからねえ、色々言われたよ。彼氏がどんな論文書いてるのとか、緊急手術で出て行ってるのか、浮気相手からの呼び出しかなんてわからないよとか」

「……北大の男というのは、この前のパン屋の男と同じか?」

 じろり、と睨まれる。

 奏はできるだけ平常心を装って、

「そうだね」

 短く言い切る。事実どうかは知らないが、それは自分の中の勘違いということにしておけばいい。

「コートジボワールか……」

 イアンは、少し遠くに視線を移す。

「分かんないけどね。でも、消去法でいったら、私かその律子さんかもとは思う」

「その子は行かないんだろ?」

「……まあ……」

 イアンは突然伸ばしてきた手でゆっくりと顎をつかむと、顔を上げさせた。

「俺が遊びだと思っているか?」

 それはないことは分かっている。

「それはない」 

 じっと目を見て答えた。

「それでも、コートジボワールに行くか?」

「……」

 目があまりにも真剣だったので、たじろぎそうになってしまうが、

「え……」

 やっぱり、耐えきれずに逸らしてしまう。行かないでほしいってことなんだろうか。

 行かないでほしい……。

「ん……」 

 何の前後もなく、ゆっくりと唇を押し付けてくる。

「はぁ……」

 舌の挿入よりも前に、体を撫でられたことによって溜息がこぼれた。

 2回目は大丈夫そうだ。体の力を抜いて、余計なことを考えずに集中できる。

 ………そして。

 今度はさすがにそのまま眠ってしまいそうになる。

 22時を迎え、空腹も感じたが、それよりも体への疲労の方が眠気を誘ってきた。

「うん……」 

 更に、3回目。

 疲れ過ぎて逆に目が覚め、シャワーを浴びたくなって、ベッドの外へ出た。

 3回したことはあるが、最初の方だけだったことから、今日はイアンの体調が良かったものだと思われる。

 その、今も枕元に腰掛け、テレビの画面をぼんやり見ているイアンのポーカーフェイスから何も読み取れはしないが、それなりに満足はしただろう。

 ドアに手をかける前に、一緒に入ろうか提案しようと思って振り返ると、

「……俺がイギリスから来たのは日本から誘いがあったからだが、それを選んだのは俺だ」

 真剣に話し始めた。

「……」

 奏はまじまじとその顔を見つめる。初めて聞く、イアンの渡航の真相だった。

「日本へ来てから3年になる……。が、そもそもイギリスを出たのは、許嫁との婚約を破断させるためだった」

 思いがけず語られるイアンの過去に、奏は驚きを隠せず、

「えー!?そうだったんだ!!」

 短く納得する。

 相手はすごい令嬢とかそういうのだったんだろうなと思う。だけど、そういう決められた結婚を破断させるために日本に来た、というところが、いかにもイアンらしくて、奏はむしろ好感を覚えた。

「もちろん婚約は破断にした。だから、今愛子と付き合っている。真剣にな」

「……」

 その意味が、ひょっとしてプロポーズなのではないかと、予感し、固まった。脳裏に、昨日の出来事だけが蘇る。

「俺はいづれイギリスに帰るつもりにはしている」

 その、「つもり」の単語部分だけ声が少し大きくなる。

「……」

「日本は良いところだ。だが、イギリスほどではない。コートジボワールは論外だがな」

「……」

 話が確信に近づいている気がして、黙らざるを得なくなる。

「ただ、愛子が言うのなら。コートジボワールでも、どこへでも行こう」

「………、えーーー!?!?」

 思わず、半分笑いながらイアンのそばへ寄った。

「こ、コートジボワールってすっごい大変だよ? 多分、というか、絶対」

「どこでも医者はできる」

イアンは真剣に見上げてくるが、到底それには答えられず、笑ったままの顔になってしまう。

「そうだけど。そうだけど! そうだけど。まあ、あの。ちょっと待とう、話を戻そう!」

 うれしいのかどうなのか、顔が勝手に笑えてくる。

「あの、ちょっと待って。………あなたは別にコートジボワールに行く必要はないと思う」

 とにかく、確かなことだけ先に並べたつもりだが、

「それは、どういう意味だ?」

 どういう意味かと聞かれたら、どう答えればよいのか分からないが、

「いや、その……。あのね、あのねえ。イアンってさ、自覚ないのかもしれないけど、すっごい人なんだよ? 帝東医大で脳外科の先生で……なんでその思考になっちゃったの? コートジボワールなんて…… 」

「だからといって、愛子を失うくらいなら、付いて行った方がましさ」

「……」

 目を見たまま、腕を伸ばされ、そのまま抱きすくめられてしまう。

 昨日のことが、再び罪悪感として、心に出没し始めたので、改めて追い払った。

「あの。あのー、あの」

「……」

 イアンは腕を緩めそうにない。

「その……。あの」

 ご両親は大丈夫なの、という一言が喉まで出たがやめた。

 そういう話を今進める気には到底なれない。
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