ブロンドの医者とニートな医者

 翌日から、運よく仕事が忙しくなってきたので、律子達と話し込むこともなくなった。それでも莉那はしつこかったが、取り合わなかった。

 イアンとも昨日、それなりに連絡は取った。だけど、中身のない雑談に留め、お互い忙しいということを中心に述べるだけだった。

 思い出してはいけない。大河原に抱き着いたことを。

 考えてはいけない、彼が一体どんな医者なのか、なんて。

 ふと、手が止まっていることに気づいて、わけもなく髪の毛を耳にかけ、書類を1から確認する。

 それでも、やっぱり……大河原に一度会ってみようか。

 今夜は、パンを買いに行こうか。

 いつも通りベンチにいるかもしれないし。

 ひょっとしたら、私を待っているかもしれないし。

 だとしたら、どんな会話を……

「奏さん……奏さん?」

「あっ、はい!」

 驚いて振り返った。

 そこには、いつもの水谷課長がいる。

「あ、わりと進んでるね。追加で頼みたいことがあるんだけど…大丈夫かな」

 追加の資料が見える。それをしたら、21時半には絶対に出られない。

「………大丈夫です」

 奏は仕方なくそう答えた。そう、それが現実でもあるのだ。

「じゃ、よろしく」

 資料を手渡された瞬間、コートジボワールのことが頭を過った。

「…………」

 水谷はそのまま席に着く。

 みんな、殺伐とした雰囲気の中、パソコンを打ちながら溜息をついたり、電話に出たり、スケジュールを確認したり……。

 奏は、受け取った資料をパラパラと確認したふりをして、そのまま席を立った。

「課長」

 水谷はすぐに顔を上げ、

「分かりにくい資料で悪いね。それが……」

 と申し訳なさそうな顔をしたが、

「あの……」

 それを制して、できるだけ小声で、

「少しご相談したいことがあるんですが」

 顔を伏せて言った。

 水谷は何の反応も見せず、腕時計だけ確認すると、

「……、12時半に会議室で」

 短く言って、素早くパソコンに目を向ける。

 何故かそのしぐさが、妙に映って仕方なかった。





 食事をする気にもなれず、12時をすぎてすぐに会議室に入った。

 ここに入ってしまえば、誰かに見られることはない。

 おそらく、水谷は食堂で昼食をとってからくるはずだから、12時半すぎになるだろうと予想していた。だが、15分も早い時間に会議室のドアは開いた。

「あ、もういたの」

 驚いた様子で、彼は後ろ手でドアを閉めた。

「すみません、お昼中に……」

「いや、まあ。で、何かな……」

 水谷は先に一番ドアに近い椅子に腰かけたので、奏はその隣に立った。

「あの……、憶測だけで話をするんですが、コートジボワール行きの出張があるというのは本当ですか?」

 面食らったように、一時停止した水谷は、視線をそらして黙り込んでしまう。

「あの……滝宮さんから何年か前にあったから、今回もあるだろうって聞いただけなんですが、どうしても……気になって」

「あぁ……それ? 話って」

「え、あ、はい」

 拍子抜けしたように、

「はぁはぁ」

 と納得した水谷は、

「えっと、コートジボワール……」

 と言って、腕を組んだきりしばらく黙った。

「…………。コートジボワールね…………。

 この話はまだどこにも出されていないから言うわけにはいかない、というのが答えになってしまうから、他言無用ね」

「………」

 その話が実在したということに、聞いた奏本人が固まってしまった。

「他言無用にしてもいいから君に言いたいという理由がある。

 1つは君が候補に挙がっているということ」

 やっぱり……。

 ただ、頭の中に田舎町でアランが白衣を着ている姿だけが映る。

「1つは、君が行けない場合は滝宮にできるだけ行く気になるようフォローしてほしいということ」

 後者は無理だ。だとしたら……私、コートジボワールに本当に行くのだろうか……。

「ま、行くと言ってもとりあえず1か月だけどね」

「え!?」

 それなら律子も行くのではないかと即座に思う。

「え、1か月なんですか?」

「まあそれで調子みて、2人必要なら2人赴任するし…僕の感では、2人もいらないと思うからね」

「……2人って、1人は課長に決まってるんですか?」

「ご存知の通り、通例の儀式的なものらしいからね」

「儀式……」

 毎年課長が海外赴任して、部長に上がるということを言いたいのだろうが…。

「あ、じゃあ私、行きます」

「おっ、いい返事だね」

 水谷が笑った瞬間早まった気がして、

「いえあの、その、1か月なら!ということですが」

「あの、普通に考えて、2人行く場合は、1か月行った人が赴任するからね。1人で済むというのは僕の感だから、現地の状況はまた違うのかもしれないし」

「……野崎がなあ……もっと力がついてればよかったんだけど」

 若い独身男性だ。確かに、辞令即赴任でも十分行けるだろうが、惜しいことに、その仕事をする力がほとんどない。

「逆に行けば力がついたりして……」

「そんな甘いところなら、行って部長になれるわけがないだろ。奏も、ここに行けば主任に上がれるぞ」

 ……ずっとここで働きたいとは思うけど、アランのこともあるし……。

「で、なんでそれが聞きたかったわけ? まあ、消去法で、滝宮か奏の二択になるのは誰の目にもわかるけど」

「いや……その。滝宮さんからその話を聞いてから、ちょっと気になってて…」

「出世のために行こうというわけではなく?」

「いやあの……、いきなり辞令出されたら、どうしようかなあとか」

「いやいやそんな無茶はしないよ。じゃなくても、行きたい奴らはそれなりにいると思うからね。だから、推薦という形だけど」

「……」

「この話するのまだ2週間くらい先の予定だったんだけどな。

 黙っといてくれな。考える時間が2週間伸びたと思って」

「あ、はい……」

 水谷は既に立ち上がろうとしている。

 奏はふと思いついて聞いた。

「あの、私が断ったら、滝宮さんに打診するつもりだったんですか?」

「そうだ。順番的に」

「どうして私は断りそうにないと思ったんですか?」

 意外に水谷は、息を飲んで、視線をそらして溜めてから、口を開いた。

「まあ、あぁいう住みにくそうなところで住める力が奏にはあると思ったから…だな」

「た、しかに……私の方が汚れ仕事が平気な感じですよね……」

 水谷はふっと笑って続けた。

「重要だよ。適応能力があって、仕事ができる、そして性格がそれなりに合う。赴任となったら1年は固いから」

「………」

 アラン……本当に着いてくるんだろうか。

「だから、1か月というよりは、1年、2年ということを考えて決断してほしい。俺は奏にとって良い話だと思っているよ」

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