ブロンドの医者とニートな医者

 コートジボワール行きが、今の状況を打破してくれるのなら、と思い立って聞いたのに、その話が現実になるとさすがに足取りが重くなった。

「……」

 別に、行きたくなければ、行かなくてもいい。

 私も、律子も行かなければ、誰か行く人はいる。

 多分他部署から異動になって行くんだろう。

「……」

 自分の中でやはりアランがどうしても引っかかる。

 もし、アランがいなければ即答したかもしれない。

 いや、どうだろう……。大河原と出会っていたら、それはそれで悩んでいたかもしれない。

 さすがに、1年も2年も待てる男の人は…いや、女の人だっていない。

 ここにきて、ようやく律子があそこまで固辞していた気持ちが分かった気がする。

 午後7時になってアランから電話があり、会社の廊下で、遅くなるが、会って話したい旨を伝え、簡単に電話を切った後、素早く仕事を済ませてから、22時半に退社した。

 予定通り、アランは会社近くのフーズバーの個室で待っていてくれる。

「ごめん、遅くなって」

 残業疲れのハイテンションで話しかけたが、それに対してアランは

「……」

 手術が失敗したかのような、無表情でこちらを見た。

 すぐに目をそらされる。

「………」

 唐突に大河原のことが思い出されたが、怖くてすぐにシャットダウンして、気づかないふりをして椅子に腰かけた。

「そのー、ごめんね、遅くなって。色々、忙しくって。今日も突然残業頼まれちゃって。ちょっと今忙しいの、会社自体が」

「………」

 アランは何も言わずにメニューを見た後、コールボタンで店員を呼ぶと料理を注文し、再び黙った。

「………」

 もともと、口数の少ないアランだが、今日は何か言いたいのか、言いたくないのか黙り込んでいる。

 むしろ、手術が失敗して落ち込んでいるといって欲しいくらいだった。

「その、あの。この前言ってたコートジボワールのことが、やっぱり話に挙がってきてね」

 間を埋めるように、先に口に出す。

 アランがこちらを見ているのが分かったが、視線を向けられなかった。

「まだ考える時間はあるんだけど……。

 なんかね、とりあえず1か月行ってみて、私が必要だったら、1年とか2年とか行くみたいなんだけど、いらないなら、その1か月で終わりみたいなの。だから」

「その答えは前回出した」

 そうだ。

 コートジボワールに行くなら着いて来ると言った。

「………」

 そうだねの一言は出ない。

 私は、アランにあんなところで医者をさせるつもりはさらさらない。

 だけど、自分がコートジボワールに行かないという手段も考えられない。

 自分が引くか、アランを立てるか。それとも、別々の道を歩むか。

 料理は前菜から運ばれてくる。

 この時間にコースは重いが、アランなりに、きちんと食事を採りたいと思ったのだろう。

 フォークを手に取ったところで、

「どういうつもりで今そこに座っている」

 厳しい質問に、奏は即座にフォークを元に戻した。

 どういうつもり……。

 まあ、そうかもしれない。

 もう別れるということが、決まっているのにも関わらず、このコース代を支払うのは癪なのかもしれない。

 アランの嫌なところを見た気がして、最後にこんな風になりたくなかったなと、寂しさを覚えた。

「そだね……。

 私は、やっぱりコートジボワールに推薦されたんだから、行きたい。

 だけど、そこにアランを連れては行けない」

「自分の意志で行くと言っても?」

「……させられるわけないよ。イギリスからわざわざ来て、私に出会ったばっかりにコートジボワールに行くなんて。

 アランのお母さんに、なんていえばいいのよ」

「それは自分の意志で決めるものだ」

「……」

 まあ、もう30なんだし、そうかもしれない。

「私は……今せっかく東帝医大のお医者さんなんだから、それを捨てさせたくない」

「では、日本に残ればいい。それで会社を辞めさせられるんだったら、私が養っていく」

「……」

 養っていく……それが、二度目のプロポーズだということは、わかる。

「私は、日本の大学病院に拘っているわけではない。そんなものはどうでもいい」

 そういう捨て身だけは辞めてほしいと思う。

 それに、私のコートジボワールを絡めないでほしいとも思う。

「……じゃ、こうしよう。

 遠距離恋愛。

 でも、無理だと思ってるんでしょ?」

 アランの顔が少したじろいだ。

「……できればしたくはない」

「……、うーん。あそうだね。うん、それがいいかも」

 奏は自分の中で結論が出た気がして、フォークを手に取った。どうせ注文したんだから、全額支払わなければならない。

 大河原が言った、注文したら金払わないといけないんだぞという一言を思い出して、一人顔がにやける。

「できればしたくはない」

 アランは精一杯言い切ったが、

「でも、それがお互いの最大の譲歩できる限りの1つの案というか」

「…………」

「まあ、アランはモテるからね。海外行った途端、連絡来なくなったりしてね」

 それでもいいやと笑ったが、

「それなら結婚してから行ってくれ」

「、」

 奏はアランの顔を見た。

「え?」

 アランはこちらを穴が開くほどに見つめている。本気だ。

「いやその、その、あの。その、あの、結婚するには時間が短いでしょ」

「何の」

「……だってさ、そのコートジボワールに行くったって、多分2か月後くらいには本当に行くだろうし。その間に結婚式とか無理じゃん」

「できる」

「できるよ?
 そりゃできるよ。でもさ、結婚式ってちゃんとしたいじゃん」

「そんなに結婚式に拘るなら先に籍だけ入れとけばいい」

「…………」

 自信がないわけではないが、自分の中にない選択肢の元にしゃべられると、いらっとくる。

 その無粋な顔で伝わったのか、

「コートジボワールには行かない。結婚はしない。遠距離恋愛がいい。それはつまり、私とは終わりたいということなのか?」

「……」

 そうなのかもしれない。

 すぐにそう思ってしまったせいで、ただ無言になる。

「終わりたいのに、無理に遠距離恋愛でごまかしたつもりか」

 そう追及されると、罪悪感しか沸かない。

 その罪悪感の先に、厳しく追及しようとするアランに腹が立ってくる。

「そういうわけじゃないけど」

「私は正直待てない。ここで待つと恰好をつけても後で後悔するだろうからな」

「……いいじゃんアラン、モテるんだし」

 無心で言った。

「次々いるでしょ。ナースとか。イギリスにもいい名づけがいたんでしょ?

 仕事だってどこでだってできるし、どうなったって生きて行けるじゃん。実家だってお金持ちなんでしょ」

 視線は感じたが、顔を見る勇気はなかった。

「私なんか、アランと一緒にいる写真見せただけで、遊ばれてるとか言われてさ。釣り合ってないことは、私にも分かってるのよ」

「他人の意見がどうした?」

「私だってそう思ってるよ」

「本当に相手のことを愛しているなら、そんなこと、関係ない」

「うんそうだね、きっと愛していたら関係ないんだよね。

 でもさ、いっっも思うんだよ。

 もうなんかさ、アランってさ、次元が違いすぎてさ、すごく素敵なんだけど、私なんか……」

 大河原に抱き着いたことが、あの時の手の暖かさ、温もり、低い声だけが頭を回り始める。

「私なんか、私なんか、きっと後悔するよ!」

「………何が」

「私といたって、いつかきっと後悔するよ。そうか、浮気されて、私が後悔するに決まってる」

「どういう」

「………」

 口から、大河原の事が出かかったがどうにか抑えた。

「………」

 アランが溜息を吐いた。どちらも前菜を前に、手をつけられるような雰囲気ではない。

 涙があふれて、苦しくなった。

 だけど、きっと、つらいのはアランの方だと思う。

 それを分かってあげられない自分も嫌だった。

 なのに、その上からさらに酷な一言を乗せてしまう。

「この前…………」

「………」

「北大のお医者さんと、ディナーに行った」

 カランと、フォークと皿がぶつかる音がする。

「でもそれは、本当にお礼のつもりだったの。私が、たまたま寄ったままパン屋の前を通りかかって倒れて、病院で介抱してくれたの」

「…………」

 さすがに応えているのだろう。

 可哀そうに思えてくる。

 だけれども、そのままにしておく方がきっともっと可哀そうなのだ。

「それに私……。

 その人が好きだと思う」

 今、自分で自覚した。

 私は、きっと大河原が好きなのだ。

 だけど、アランのために遠慮をしてきた。

 大河原には彼女がいる。それでも、それでもいい。

「ごめん……。遠距離なんかでごまかそうとして、ごめん……。アランのことを責めてごめん……」

 悪いのは自分。国籍が違うから、考え方がきっと違うと思ってないがしろにしてた。

「………、謝るくらいなら、そいつを忘れてくれ」

 思いがけないアランの一言に、顔を上げてその顔を確認した。

 いつも通り整った顔立ちだが、眉間に皺が入っている。しかし、その怒りすら美しく見えてしまう。

「浮気をした慰謝料だ。明日一番の飛行機で、イギリスへ帰る」

「え……」

 アランは立ち上がると、いきなり腕をつかんで同じように立たせてくる。

「えっ、とっ」

 そして、腕をきつくつかんだまま、片手でスマホを操作すると、英語で話しをする。

「家のジェットを日本まで飛ばしてくれ。そのままピストンしてイギリスへ帰る」

「えっ……」

 反射で掴まれた腕を動かそうとしたが、びくともしない。

「今から羽田へ向かう」

「えっと、ちょっと」

「愛子、人を見くびるということはこういう事なんだよ」

 見たこともない、真剣な表情で、腕をつかんだ手に力を込めてくる。

「あ……の……」

「そして、愛するということがどうも分からないようだから、これから一生かけて分からせてやる」
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