雪の果てに、催花雨は告ぐ。
自由に空を飛び回る鳥たちの囀り。
カーテンの隙間から差し込む春の柔い日差し。
風でパラパラと捲れるノートの音をBGMに、日本史を丁寧に教えてくれる彼の声を聞いていた。
「―――1335年、中先代の乱。挙兵した人は?」
「えっと…北条…北条…」
「北条時行(ときゆき)」
そうだったわね、と笑えば、テキストで頭を叩かれた。
涙目になりながらも、精一杯睨んでみるが効果はなくて。
「足利尊氏と北条軍。勝ったのはどっち?」
自信満々に「北条軍」と答えた私は、不正解の罰ゲームとして授業を10分延長されたのだった。
心地のよい静かな空間に、昼休みを告げる鐘が鳴り響く。
昨日と同様、帰り支度をし始めていた私は、目薬を差している彼の横顔を盗み見ていた。
村井先生がいない保健室で過ごすこと3日目。
この奇妙な授業が始まってから、まだそれしか経っていないというのに、彼とは随分親しくなれた気がする。
彼の名前は、倖希(ゆき)。
本人は女っぽい名前で嫌だと言っていたが、私はとても素敵な名前だと思う。
教えてもらった日、とても綺麗な響きだねと言ったら、倖希は悪態を吐きながらも照れくさそうに笑っていたから。
「……ねぇ、」
「うん?」
宿題かな?と体ごと倖希の方へと向けば、真っすぐな眼差しを注がれた。
「今日は、帰らないで」
「え?」
帰らないで、って。ならば何時まで学校に居るのかと考え出した私に、ほんの少し慌てた口調の声が降る。
「遅くまで残れって意味じゃないから。今日は昼で帰らないでってこと」
「そういうことか。って、え…?」
意味を理解したつもりだったけれど、やっぱり分からない。
どういうことなのかと倖希の顔を見たが、倖希はそれ以上説明をしないらしく、私の手首を掴むと歩き出した。
「ゆ、倖希…!?」
一体どこに連れていかれるのだろう?
歩くこと2分。手を引かれるがままに連れていかれた場所は、校舎内の中央にある食堂。
さすがお昼時だ。どこもかしこも人だらけ――って、そんなことを考えている場合ではない。
涼しい顔で人混みを通り抜ける倖希に、私は何度も声を掛けたのだけれど。
倖希は終始無言のまま、私を食堂に導き入れた。
やがて食券の券売機の前まで来ると、私の手を離すなりポケットから財布を取り出す。
「和、洋、中。どれが好き?」
「え…?」
この状況が全く読めない私は、突然投げられた質問に答えられず、うやむやな返事をする。
倖希は後ろを一瞥すると、「問答無用で和食にするから」と言うなり、『日替わり 和』と書かれたボタンを二回押した。
それだけでなく、カウンターの脇にあるお盆を一つ手に持たされた私は、さらに状況が分からなくなった。
「あの、倖希?」
「なに?」
「ここ、食堂よね?」
「見て分からない?」
それくらい、見れば分かるのだけれど。
「ほら、お味噌汁」
マイペースな人であることは知っているけれど、無理矢理連れ出しておいて、何一つ説明してくれないなんて酷い。
「……ありがとう」
トン、と置かれた味噌汁を眺めながら、小さなため息を漏らした。
ご飯、お味噌汁、焼き魚、漬物とデザートが乗ったお盆を抱え、テーブルと椅子が並ぶスペースへと向かう倖希の後を追う。
窓際にある二人掛けの席にお盆を置くと、倖希は座った。それに倣い、私も腰を下ろす。
いただきます、と箸を手に取り、温かいご飯を口に運んだ。
食堂に来たのは、今日が初めて。
倖希がここに連れてきてくれた理由は分からないが、私がいつも昼に帰っていることを知って、もしやと思ったのだろう。
普通の子じゃない私は、普通の子が来る場所には行けないと、無意識に思っていたのかもしれない。
そんな私を、何の躊躇いもなく“普通の子”として接してくれている倖希。
大分心を許していたことに気付くのは、まだ先の話。