花と傘とバス停と
輝希と三澄と別れた後、廉はいつも通りバス停に向かった。
見渡す限り田んぼだ。昨日の雨のおかげで、稲が元気そうにしているように見えた。
この風景にはもう慣れた。地平線が淡々と続いていてる。その途中で、田舎の風景にはそぐわない機械的な建物が小さく建っているのが見える風景にも。
廉の父が務めている風力発電所だ。

(父さん……)

心の中で小さく呼んでみた。もちろん気づくはずもないが。
母親の顔は一切覚えておらず、いつ出ていったかすらも思い出せるか危うい。
ただ記憶の奥に残っているのは、『自分は愛されていない人間だ』と深く心を抉られた痛みだけだ。
男手一つで育ててくれた父だが、最近は仕事が多いせいでろくに会話ができていない。

(今の俺に寄り添ってくれるのは、こーちゃんとみーくんだけだ)

相手がいない時ならあだ名で呼べるのに。
どうしても、他人に呼ぶ姿を見られたくないのだ。男子タルモノ、可愛いあだ名で呼び合うような「乙女系」男子になるのは避けたい。
そんなことを頭の中で独り言のように巡らせているうちに、目的地に着いた。
無人バス停の標識の横には、古いただれた木のベンチが一脚。その上には申し訳程度のボロい屋根が広がっている。俺はベンチに勢いよく腰掛けた。

(バイトのシフトを考えると、このバスの時間
が一番丁度いいんだよな)

家にいてもすることのない俺は、ちょっと前から家の近くのラーメン屋で働いている。忙しいが、やりがいをとても感じている。

「にしても寒ぃ~……来週でもう12月か……早いな……」

今年も特に何もできなかった───。と一年のまとめをするのにはまだちょっと早いか。
12月のイベント、俺の誕生日、クリスマス、年越し。
俺は全部バイト、バイト、バイトだ。誰とも予定のない自分を呪いてぇ。

「仕方ない。こーちゃんとみーくんから何か誘ってもらうのを待って───」

ベンチの背に腕を回し、独占するように両手を広げた。その時、何かが手に触れ、地面に落ちた音がした。

「?」

首だけを振り向け、自分の肩から覗く。
傘が落ちていた。ベンチに掛かっていたのを俺が落としてしまったらしい。

「誰のだ? ……雨降ったの昨日だけど。もしかして忘れ物?」

席を立ち、両手でしっかりと傘を握った。
深い藍色の生地と、端っこに優雅な花柄が施(ほどこ)してある。これから分かることは、おそらく女物だということ。
そうすれば、必然的に女性の忘れ物だと考えられる。

「置いとけばいいか……ん?」

柄(え)の方を見ると、小さな名札のようなものがぶら下がっていた。

【花澤】

はなさわ……さん? はなざわ? でいいのだろうか。
随分と綺麗な字だ。筆で書いたお手本のよう。とても滑らかで優しい字だが、擦れば消えてしまうような感じではない。優しさの奥のしっかりとした力強さが滲み出ている。

(文字ってその人の性格を表すとか言うけど、なんかこの人は頭が固そうな字してるな)

「…………泥棒」

消え入りそうなくらい透き通った声がそう呟く。
驚きで固まった身体をほぐし、頭の中を整理する。 そこで俺はやっと、その声の発生源が背後だということに気がついた。
体全体は固定したままで、首だけゆっくりと振り向いた。なにか不穏な存在感があるのは見なくても分かるが、確認せざるを得なかった。
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