古都奈良の和カフェあじさい堂花暦
気がついたらスタッフ用の休憩室に一人で茫然と座っていた。
しばらくしてやってきた上司は、取返しのつかない失態をした部下を見るように憎々し気に悠花を見た。
「とんでもないことをしてくれたな」
「何が、ですか?」
「私にまでしらばっくれなくてもいい。今の女性は長谷川クリニックの奥様だそうだ。身に覚えがあるだろう」
そう言われても何がなんだか分からない。
ただ、長谷川クリニックという名前には聞き覚えがあった。
院長の長谷川氏は外商部のお得意様だった。でもただそれだけだ。
悠花の担当顧客ですらない。
「いったい何のことでしょう。私は長谷川先生にはお目にかかったこともほとんどないと思うのですが」
いや、一度か二度。担当社員が休暇中であったり出張中の時に品物を届けに行ったことがあったかもしれない。
けれどそれは両方とも目黒にあるクリニックの方で、夫人とはまったく面識がなかった。
「奥様は君と長谷川先生が不倫の関係にあったと仰っている」
「そんな、誤解です!」
懸命に否定をしたが聞き入れて貰えず、しばらく有給を消化して休むように言われた。

「奥様のご実家は名勝グループの創始者の一族だ。正直言って長谷川先生ご自身よりもこっちの方がよっぽどまずい。本当にとんでもないことをしてくれたものだ」
自宅待機をしている最中にメールで、埼玉県の支店に移動になったことを一方的に告げられた。

しばらくして、長谷川先生の担当だった外商部の先輩の井戸田という男性社員から本当の浮気相手は院長の医大時代の同級生だった女医だったと知らされた。
院長自らそれを打ち明けたうえで、

「うちのはバリバリの専業主婦でさ。女性のキャリアなんていうのになぜか異様に敵愾心持ってるんだよな。浮気相手が国立医大でも評判の美人ドクターなんて知ったらどんな騒ぎになるか……。その女の子には悪いけど助かったよ」
とぬけぬけと言い放ったらしい。
「ひっどい話だよな。相手が百貨店の女の子だっていうなら院長のほんの気まぐれの火遊びで済むからその方が丸く収まるだってさ。馬鹿にしてるよな」
電話のむこうで井戸田さんは憤慨してくれたが、だからと言って私に対する不当な処分を撤回するように上司に掛け合ってくれる気はさらさらないようだった。

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