蜜月は始まらない
「あ、ありがとう、錫也くん」



顔が熱くて、心臓がうるさい。

それでもなんとか、途切れ途切れにお礼を言えば、彼はよくわかっていなさそうな顔で小首をかしげていた。

優しいのは……錫也くんの、方だよ。

言い方は物騒だったけど、私のことを思ってあんなふうに言ってくれたのがわかるから、どうにもときめいてしまう。

そのとき、タクシーが減速して路肩に寄るのがわかった。

いつの間にか、マンションの前にたどり着いていたらしい。
停車してハザードを点けたドライバーさんが、「お疲れさまでした~」と声をかけてくれる。



「……錫也くん、大丈夫?」



ドアを閉めたタクシーが去って行ったタイミングで、私は隣に立つ彼を気遣わしげに見上げた。

錫也くんはぼんやりとした目を私に向けるけど、それでも「大丈夫」と返して歩き始める。

どこか危なっかしい足取りで、それでもなんとか30階にある自宅へと到着した。

よかった。もし錫也くんがまともに歩けない状態になってしまっていたら、非力な私じゃどうにもできなかったから。



「はいこれ、とりあえず飲んで!」



帰宅してまず、彼にはコップに注いだミネラルウォーターを渡した。

素直に受け取って喉を鳴らしながらひと息に飲む姿を、じっと観察する。

まあ……具合悪そうにしてるわけでもないし、問題なさそうかな。

今はまだ、日付も変わっていない時刻。明日の試合はナイターだし、睡眠時間も充分に取れるはず。

お店で、料理はしっかり食べてたよね。起きたとき、二日酔いになってなきゃいいけど……。

シャワーを浴びるため脱衣場に消えた後ろ姿に、こっそりため息を吐いた。
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