蜜月は始まらない
定時ちょうどに仕事を終え、もうすっかり慣れた電車での帰路につく。

マンションの部屋の前にたどり着いた私は、一度深呼吸をしてからカードキーをかざし、ドアハンドルに手をかけた。



「ただいま……」



家の中に向かって控えめに声をかけながら、ドアを閉める。

昨日まで、錫也くんは名古屋へ遠征に行っていた。

月曜日である今日は試合のない移動日で、午前中のうちに新幹線で帰京し、それからホーム球場で軽めの練習があるそうだ。

だから今日は、『華乃よりも早く家に帰ると思う』と聞いていたんだけど……。


玄関を見れば、錫也くんが遠征の移動時に履いている革靴や普段使いのスニーカーがある。

けれど、家の中から物音がしないのだ。

もしかして、お昼寝してたのかな? それか、集中していつもの野球ノートを見ているか……。

どちらにしろ邪魔をしないように足音を消し、そっとリビングを覗いた。


「あ……」



中の光景を見て、つい、小さく声を漏らす。

寝ているにしても、自分の部屋にいると思っていた。

けれど錫也くんは、めずらしくリビングのソファの上に大きな身体を投げ出して穏やかな寝息をたてている。

彼が眠っているところを、初めて見た。

私は通勤用のバッグを持ったまま、引き寄せられるように静かにソファへと近づく。

……寝顔も、綺麗だなあ。

傍らの床に座り込み、不躾にもまじまじとその寝顔を眺めてしまう。
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