蜜月は始まらない
「……こっちこそ、ありがとう。たぶん1回飲みにでも付き合えば、満足すると思うから。詳しい日程とか決めたら、また教える」

「うん。楽しみにしてるね」

「ああ」



うなずいた彼にまた微笑み返して、そこで私ははたと気づく。

錫也くんの先輩たちに、私のこと紹介してもらったら……今後この婚約が破綻したとき、錫也くんはかなり気まずい思いをしちゃうんじゃないかな……。

かくいう私の方も今日まさに、休憩後根本さんが他の同僚たちにテンション高く吹聴したおかげで、もれなく職場の人たちに同居の件はバレちゃったわけだけど。



「華乃? どうかしたか?」

「あ、……ううん、なんでもない」



誤魔化すように首をゆるく横に動かし、食事に集中するフリで視線を手元に落とす。

錫也くんは……私のことを、どう思っているんだろう。

少なくとも、嫌われてはいないんだと思う。
じゃなきゃこんなふうに、穏やかな空気で同じテーブルを囲むこともできないだろう。

元クラスメイトの、友達として。その分だけの好意は、たぶん、持っていてくれているのだと感じる。

でも……同居を始めてから1ヶ月。
結局彼は一度も私に、“そういう意味”で触れていない。

つまり、そういうことだ。初日の夜にあんなふうに忠告したとはいえ、錫也くんにとって私は、色っぽいことをする対象ではないということ。

あたりまえだよね。だってきっと彼の周りには、私なんかよりずっと綺麗でかわいい女性がたくさんいるのだろうから。

私は今後も、ただ、与えられた自分の役目をまっとうするしかない。

錫也くんとの暮らしは楽しくて、心地良くて。

いつかこの同居生活の終わりを迎えることが、日に日にこわくなっていると。

自分でも気づき始めている私は、思わず震えそうになる身体を抱きしめるように、空いた左手でそっと右の二の腕を掴んだ。
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