水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~
「あの、電話機を貸してもらえないでしょうか? 知人に連絡を取りたくて……」
「別に構わないが。使用料は高くつくぞ」
「えっ? おいくらでしょう……? あ、助けていただいたお礼も含めてでお願いします……!」
「アホか。今のは冗談に決まってるだろ」
「そ、そうでしたか。ありがとうございます」
「……ふっ。からかわれて礼を言うやつ、初めて見た」

 男は波音を凝視した後、僅かに口角を上げた。仏頂面に浮かんだ笑顔を見て、波音はぎょっとしたが、おかしくて笑っているというより、馬鹿にされているようだ。

 こんな居丈高《いたけだか》な男でも、笑うことがあるものだ。不思議と、嫌悪感は覚えなかった。

(なんだろう。初めて会ったはずなのに、どこか懐かしいような……)

 男の筋肉質で硬い胸板が、波音の腕と肩に触れている。そこから微かに伝わる心音に、懐かしさを感じた。波音は記憶の糸を手繰《たぐ》り寄せて必死に思い出そうとしたが、男に該当するような人物に覚えはない。

「あー……念のため確認するが、さっきのは人命救助だからな。下心はなかった」

 どこに向かっているのかは分からないが、男は迷うことなく歩を進めながらそう言った。その顔から笑みはなくなっており、今度はばつが悪そうに、やや苦い表情を浮かべている。

「下心? 何の話ですか?」
「……天然かよ。さすがに分かるだろ。さっきのキスは人工呼吸だから、ノーカウントだって言ってるんだ」
「キス……? あっ!」

 波音は慌てて手で唇を覆った。そうだ。波音はすっかり忘れていたが、息を吹き返す前、この男に唇を塞がれたのだ。なぜ、そんな大事なことを気にも留めなかったのか。
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