水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~
 これ以上、渚を裏切るようなことはしたくない。でもひょっとすると、この碧は『碧兄ちゃん』と繋がっている可能性がある。きゅっと胸を引き絞られ、迷った挙げ句、波音は頷いた。

「一回、だけなら……」

 いずれにしても、ファーストキスは既にこの男に奪われたのだ。取り返しがつかないなら、二回目も三回目も同じ。

 もしそれで、碧が何かを思い出せるのなら――そうやって、もっともらしい理由をつけて、波音は彼の願いを聞き入れる決断をした。

「……どうした? やけに素直だな?」
「た、頼んだのはそっちですよ?」
「まあ、そうだが。ふっ……じゃあ、遠慮なく」

 親指で唇をひと撫でされた後、波音が目を閉じてすぐ、碧の唇が重なった。今度は一方的で乱暴なものではなくて、慈しむような触れ方だ。

 そこに碧の気遣いを感じて、波音はほんの少しだけ嬉しくなってしまった。

 ちゅ、ちゅと触れ合うところから音が鳴る。そのくすぐったさに波音が身体を震わせていると、碧が笑う気配がした。

「酒、くさ……」
「……あ。ビール、飲んだんでした」
「それを先に言えよ」
「キスしたいって言ったのはそっちですからね!?」

 碧は満足したのか、波音を解放した。離れていく温もりに、一瞬名残惜しさを感じた波音だったが、それではだめだと、強制的に気持ちを入れ替える。

「それよりも、何か思い出しましたか?」
「……いや。全然」
「え!? 一つもですか!?」
「仕方がないだろう。思い出したくてもできないんだから」

 波音の勇み足は無駄骨になってしまった。だが、悲しいかな、二回目のキスにドキドキしている。波音はそれを必死に隠していた。
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