水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~
「波音」
「は、はい……」

 碧に初めて名前を呼ばれた。昨日出会ってから今までずっと、「おい」とか「お前」だったにも関わらず、だ。不意打ちに、波音の鼓動が加速する。

「おかしなことを聞くが……俺は昔、お前に会ったことがあるか?」
「……いいえ。ありません」
「本当に、ないのか?」
「ありません。昨日初めて会いました。その、私のよく知る人と名前が同じだから、初めて会った気がしない感じはしますけど……」

 今なら、『碧兄ちゃん』はもういないのだと、伝えてみてもいいだろうか。波音が詳しく話をすれば、碧は『この世界の出来事ではない何か』を思い出すかもしれない。

 そうなった場合、波音の仮説が実証される。

 だが、まだ心の準備ができていない。波音は黙っておく方を選んだ。

「お前の顔と名前……なんか、引っ掛かる」
「た、他人の空似《そらに》じゃないですか?」
「……そう、かもしれない」

 碧は、「悪かったな」と一言残し、波音の頭をぽんぽんと撫でて、風呂場へと消えていった。過去を思い出せないことが悔しいのか、肩を落としている。

(もしも、碧さんが『碧兄ちゃん』の記憶を持っている人だったら……)

 あり得ない、そうであるはずがないと思う一方で、そうであってほしいとも思う。波音の気持ちはぐちゃぐちゃだ。なぜこんなにも、心をかき乱されるのだろう。

(会いたいな。碧兄ちゃん……)

 未だ残る碧の温もりを確かめるように自分の唇に触れ、波音は立ち尽くしていた。
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