エリート弁護士と婚前同居いたします
「茜」

 低く甘い低音で唐突に名前を呼ばれた。
 ドキン!
 鼓動が慌てたように跳ねた。突然過ぎて心臓に悪い。
 ただ名前を呼び捨てにされただけなのに、胸がざわめいて落ち着かない。恥ずかしくて彼の目を直視できない。裏返ったような声が出てしまう。

「な、何っ!」
 彼は軽く目を見開いてクス、と形のよい唇を綻ばせる。
「じゃ家賃はそういうことで決定な。もう少しで飯ができるから、いい子にして待ってて」
 そう言って彼は再びキッチンに戻っていく。

「え、ちょっと待って! 私、まだ了承してない!」
 私の反論は彼がマーボーナスを炒める音にかき消されてしまった。結局こうして私はこの人のペースにのまれてしまっている。

 彼が作ってくれた献立はワカメスープに白ご飯、マーボーナス、キムチ。何と言うか本当に家庭的な食事だった。
 リビングとひと続きになっているスペースにあるダイニングテーブルの椅子にふたりで向かい合って座る。
 お互いにいただきます、と言って手を合わせ、箸をもつ。

「美味しい!!」
 感激して食べている私に彼が苦笑する。彼の作ってくれたご飯は意外なほど美味しかった。料理まで完璧にできるなんてもう何も敵う気がしない。
「それは良かった」
「上尾さんって、もっと毎日高級な食事をとっているのかと思ってた」
 正直な意見を口にすると、彼が綺麗な顔を不愉快そうに歪める。

「なんで? その前に茜、俺の名前は?」
「さ、さ、朔、くん」
 必死に絞り出した答えを告げる。『さん』付けを拒否されたら『くん』付けしか思い浮かばない。年上の成人男性に『くん』付けなんてしてしまっていいのかわからないけれど。
 恥ずかしすぎて、額に嫌な汗をかいてしまう。
「物足りない感じもするけど、まあいいか。とりあえず、今は」
私の真っ赤になった顔を満足そうに凝視しながら彼が微笑む。やっぱりこの人は一筋縄ではいかない。

「とりあえずも何も、この呼び方しかしないからね!」
 これ以上は譲歩しません、と言わんばかりに言い放つ。家賃代わりの条件ということなんてすっかり頭から消え去っている。彼はそんな私の態度を気にするでもなく、クックッと面白そうに笑っている。
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