氷室の眠り姫
しかし、そんな柊の心の内など気付くはずもなく、爽子は紗葉の名を口にした。
「紗葉は無事に戻りましたね?」
「………はい。今は部屋で休んでおります」
嘘でも真実でもないことを言いながら、柊は爽子の真意を探ろうとしたが、すぐに諦めた。
「たいへんご無礼とは思いますが、単刀直入にお伺いいたします。本日のご用件は?」
「…主上、いえ。今は上皇とお呼びすべきね。上皇より褒美を預かって参りました」
しかし、柊はそれを鵜呑みにはできなかった。
「それならば使いの者に届けさせればすむことです」
「……そうですね。今日は貴方に大切な話があって来ました」
爽子も真剣な眼差しを柊に向けて答えた。
「まずは紗葉の父である貴方に謝罪します」
爽子は柊に対して深く頭を下げた。
「爽子様!頭をお上げください!」
尊い身である上皇の正室に頭を下げさせることなどあり得ない。
柊は慌てて説得するが、爽子は頭を上げようとはしなかった。
「年頃の娘を主命とはいえ、親子ほどに年の離れた主上の元にに送り出すなど、本当は受けたくなかったと思います」
「………」
肯定も否定もできずに柊は唇を噛み締めて黙りこんだ。
「それに対して上皇より詫びと感謝の意を伝えるようにと」
「……勿体ないお言葉でございます」
「それと…あの子の想い人に関して話しておきたいことがあります」
ぴくりと柊の眉が動き、樹はチラリと隣室に視線を向けた。
「あの子に想い人がいることは本人に聞いた訳ではありません。私が察したにすぎません」
爽子は哀しそうに目を伏せた。
「もし、最初にそれを知っていたとしても、私は紗葉を後宮に召し上げたでしょう。けれど」
伏せていた目を開けると、爽子は迷いのない瞳を柊と樹に向けた。
「なればこそ、紗葉の想いが叶うように力を貸すことが私たちの望み」
私たち、とはもちろん爽子と上皇のことである。
それは絶対の後見を得たのと同じことを意味していた。
「あの子は清きままです。どこへでも嫁ぐことができます。それに異を唱える者がいたならば、私たちは表に出ることも厭いません」
そこまで爽子に言ってもらえるほどに信頼を得ることができた己の娘が誇らしく、涙が一筋頬を伝った。
その時、隣の部屋の扉が荒々しく開く音がした。
ハッと柊が我に返って廊下を見てみれば、走り去る流の後ろ姿が見えた。