結婚願望のない男

「…あんたが恋人役をやってくれた時…、単身赴任でいないから父親の話はするなと言ったよな。あれが、嘘。本当は、離婚してるんだ。俺が高校に入る前に」

「…え…!」

結婚願望について聞いたはずが、突然予想していない話をされて私は少し反応に困った。山神さんは乾いたような笑いを浮かべる。

「父は今東京で一人暮らしをしていて、全く連絡を取ってないわけじゃない。けど、離婚したのはあいつの浮気が原因だった。だから俺はあまり父を好きじゃないし、母はまだ父を憎んでいると思う」

お酒の力を借りないと話しづらいのか、彼はワインを半分ほど一気に飲んだ。彼の瞳には、怒り、哀しみ、寂しさなどが混ぜ合わさったような複雑な感情が浮かんでいた。”父を好きではない”の言葉には、好きにはなれないし、かといって嫌いと言い切れるほどに嫌うこともできないような…彼の心の葛藤がにじんでいるように思う。

彼の実家に行って写真を見せてもらった時、よく考えたら、父親の写っている写真はほとんどなかった。きっとお母さんが捨てたか、アルバムから抜いたんだろう。家族の集合写真も一枚も見ていない。それに、お母さんはアルバムのページをめくるたび、こちらが何か言う前に写真のエピソードを話し始めていた。今思えば私が父親について質問しないように先手を打っていたのかもしれない。

「母はもともと資産家の娘で、あんたを招待したあのでかい家は母の実家だ。父と暮らしている時は都内にマンションを買って住んでたんだけど、離婚と同時に家は売って、母と俺は母の実家で暮らすことになった。広い実家も資産もあったおかげで、父がくれるわずかな養育費と、母が趣味の延長で開いていた茶道教室の収入で俺を大学にまで行かせてくれた」

「……」

「…まあ、母子家庭の中では恵まれてるほうだと思うけど、俺は家庭が崩壊したトラウマで結婚に夢や希望を持てなくなったんだ。今でこそ母はあんなに穏やかに笑ってるけど、父の浮気が発覚して、俺の進学のために貯金してたはずのお金が結構な額その浮気相手に流れてたことがわかったときは…家の皿全部割って、泣きわめいて、そりゃもう大変だったんだ。しばらくはそのすさんだ状態が続いて、父は謝ったけどもう無理だってなって。その時俺は中学卒業目前だったから、育児に手がかかる年でもないからって、ちゃっちゃと離婚してしまった」

山神さんは苦々しい笑みを浮かべている。

「そんな母を見てるから俺は絶対に浮気はしないと思ってるし、もし結婚したら奥さんと子供を一生大切にしたい…とは思うものの、浮気以外にも離婚の原因は色々あるだろ?俺が浮気しなくても、奥さんがするかもしれないし。そう思うとやっぱり結婚なんて嫌だな、他人の人生を背負うのは重いな、って思うようになって」

私は何と言っていいかわからず、いつになく饒舌な山神さんの話をただ黙って聞いている。カクテルなんていつもはさらりと飲めるのに、今日はちびちび飲んでいるせいか、アルコールがのどに絡みついて、熱い。

「学生から社会人なりたてぐらいの頃は、俺だって普通に恋愛したし何人かとは付き合ったよ。でも年齢が上がってくるとどうしても結婚の話がちらつくだろ。女はやっぱり結婚願望が強いだろうし、30歳近くなっても結婚する気ありませんなんて言ったら可哀想だろうし…。で、面倒になってとうとう俺は彼女自体作らなくなってしまった。自分にアプローチしてくる女がいても、それがどんなに魅力的な人でも、最後に不幸な未来があるかもしれないと思うと気持ちがぷつんと切れちまうっていうか…。それで、付き合うまでに至らなくて」

「……」

一瞬沈黙が落ちて、私と山神さんそろってお酒を飲み込む音だけがやけに大きく聞こえた。

「それで、数年女の気配がなかった俺を母さんが心配して…というのがレンタル彼女までの流れだな。母はまぁ、俺には幸せな結婚をしてほしいって思ってるみたいだけど。…どうだ?俺がなぜ結婚願望を持てなかったか、理解できた?」

私は黙ってうなずくしかない。
これが…山神さんの結婚したくなかった理由。
何のトラブルもない家庭で育った私にはどれだけ想像しても理解しきれない苦しみが、彼の人生に影を落としていたんだ。漠とした想像でしかないけれど、自分が彼の立場だったとしても、結婚したくないって思う気がする。家庭って…自分の帰る場所だもの。それが壊れる恐怖、苦しみは計り知れないものだろう。
結婚してしまったら、自分がまたそれを経験してしまうかもしれない。
まして子供がいたら、子供にまでその苦しみを味あわせてしまう…。
しかも中学校卒業目前に起きたこと…思春期真っただ中の出来事だから、なおさら人生観に与える影響は大きかっただろう。中高生の時に受けた心の傷は、大なり小なり、一生残るものだ。

思い返せば、私はそんな彼らの前で「毎年家族の誕生日にはパーティーをして…」なんて言って家族自慢をしてしまった。私にとっては当たり前のことだったけれど、山神さんにとっては相当恵まれた家庭に聞こえただろう。もしかしたら、嫌みのように感じたかもしれない。家族のことを語る私を、彼のお母さんがとても眩しそうに見つめていたのも、こういう背景があったからなんだなと今になって思う。

「…私、山神さんのこれまでの苦労を何も知らないのに、山神さんに気があるそぶりを見せたり、お母さんの前で結婚願望を語ったりして、山神さんに嫌な思いをさせてしまっていたんですね。…ごめんなさい…。無神経なことを…」

とにかく、私が返せるとしたら謝罪の言葉ぐらいしかない。

「おいおい、謝るなよ。そんなつもりで言ったんじゃない。俺にはあんたが眩しかったよ。幸せな家庭で育ったら、こんなにのびのびして明るい子になるのかと」

「…でもそんな山神さんが、私のことを好き…になってくれたのは、どうしてですか…?というか、まだこないだの話が、ピンと来てないんですけど…。山神さんはその、本当に私のこと…」

私が不安な気持ちで山神さんを見つめると、彼はこちらの目をじっと見つめて、

「好きだよ」
優しい表情で、そう言ってきた。
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