片翼の蝶



えっ?と思って見上げると、
知らない男の人が私の頭を抱えて
自分の胸の中に押し込んでいた。


真っ直ぐな目をして、
その男の人は口を開いた。


「痴漢だ。次の駅で降りて」


見ると男の人はメガネをかけた
サラリーマン風のおじさんの手を掴んでいて、


おじさんは慌てた様子で必死に謝っていた。


それでも男の人は手を離さない。


電車内がざわつく中、次の停車駅まで着くと、
男の人は私とおじさんを連れて電車を降りた。


「このまま警察に行ってもいいけど?」


「ご、ごめんなさい!それだけはどうか!」


「二度とこんなことをするなよ」


「は、はいぃ!」


サラリーマン風のおじさんは
メガネをかけ直しながら慌ててホームの向こうに消えた。


私と男の人が取り残されて、
私は男の人に向き直った。


まだ体が震えている。


「あの、ありがとう、ございました……」


「気にするな。早く行こう」


「えっ?」


「俺だ。珀だ」


知らない人から知っている人の名前が出てくる。


私は男の人を見上げた。


男の人はにやりと笑ってみせた。


ああ、珀だ。


これは紛れもない、珀自身だ。


そう思ったら安心したし、それに腹が立った。


また、またこの人は人の体を勝手に借りて……!


「ちょっと!もう二度と
 こんなことしないでって言ったでしょう」


「なんだよ。怒るなよ」


「怒るよ!この人、
 ここで降りたくなかったかもしれないじゃない。
 起きた時に見知らぬ駅にいたら、
 びっくりするでしょう!どうするのよ!」


「お前のためにしたことだ。
 俺が助けなきゃ、お前が辛い思いをした」


「だからって、人の体借りることないじゃない!」


「ああ、分かったよ。
 返せばいいんだろ、返せば」


珀が怒ったように口を尖らせると、
男の人はその場に倒れ込むように眠ってしまった。


慌てて壁にもたれかけさせて体勢を整えると、
珀の姿を探した。


だけど珀はどこにもいなくて、
気付いたら真紀が傍に立っていた。


〈あなた、今のはダメね〉


「えっ?」


〈せっかく助けてもらったんだから、
 お礼を言わないと〉


そうだけど。それはごもっともだけど!


でも、怖いよ。
乗り移るって、怖いことだよ。


見た所人にあまり害はなさそうだけれど、
乗り移られている間の記憶はないわけだし、


そのまましばらくは眠ってしまうし、
起きたら何かが変わっているんだもの。


それはすごく怖いことでしょう?



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