政略結婚ですがとろ甘な新婚生活が始まりました
「……あら、お知り合いですか?」
彼女が私に気づいて、口調を途端に穏やかなものに変える。

「まあな」
私が返答する前に専務、と呼ばれた彼があっさり答える。

否定でもなく肯定でもない曖昧な返事に、声が出せなくなる。この男性のことを全く知らないというのに。

「……何か失礼なことをなさってないでしょうね?」
綺麗な女性が気遣うように私を見て、じろりと彼を軽く睨む。

「アドバイスをしただけだ。……行くぞ」
そう言って女性を私から遠ざけるようにして、歩き出す。

何か言わなきゃ、きちんともう一度謝らなきゃ、そう思うのに私の唇は震えたまま、うまく動かない。

狼狽える私をよそに、彼は一度だけ立ち止まって振り返り、私に向かってフッと甘く微笑む。
それはこの短い時間のなかで初めて見る優しい表情だった。

その瞬間、私はギュッと胸の中を鷲掴みにされたような、初めての感覚に陥った。

「あら、専務。左頬赤くなってません?」
「臆病な猫にはたかれたんだよ」
「……猫なんて飼ってました?」
クックッと妖しく笑う声がどんどん遠くなっていく。

私は動くこともできずに、じっと彼が去っていったほうを見つめていた。


「誰、なの?」


無意識に零れ落ちた言葉には答えが返ってこなかった。きちんと謝罪できていない後悔だけが胸にいつまでも残っていた。
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