政略結婚ですがとろ甘な新婚生活が始まりました
彼はこの突き当りの専務専用の個室で仕事中らしい。

平井さんは今から外出する予定で階下に降りてきた時に私と出くわしたそうだ。平井さんに会えた私は運がよかった。

今後のため、私専用の入館証の発行を環さんに進言しておくと言われた。

環さんの部屋まで案内してくれようとする平井さんの申し出を私は断った。
ただでさえ突然やってきて迷惑をかけているし、彼の部屋は目と鼻の先にある。

平井さんもそう思ったのか、困った顔をしつつ私に紙袋を渡して、階下へと向かった。


彼の部屋の前まであと一メートルほど、という場所まで足を進めた時、部屋の重厚なドアが十センチメートルほど開いていることに気づいた。

このビルの豪奢さから予想はできていたが、役員フロアはふかふかの絨毯が敷かれていて、廊下の照明すら上品だった。絨毯は簡単に人の足音を消してしまう。

時間帯のせいか、防音効果が素晴らしいのか、周囲に人気はなく静寂が拡がっていた。


「……そんなに泣くなよ」


環さんの呆れたような声が耳に飛び込んできた。


「だって約束したのに!」


泣きながら反論する甲高い女性の声。

この声には聞き覚えがある。赤名さんだ。


「もう少ししたらふたりの時間がとれるだろ。それまで待てよ」


宥めるような彼の声に私の足が動かなくなった。
細い隙間からは赤名さんがこちらに背中を向けて項垂れている姿しか見えない。

ドクンドクンドクン。耳鳴りのように鼓動が嫌な音を立てる。


なんの話?


赤名さんは彼の従兄妹で秘書だ。
だから彼の部屋にいてもおかしくない。

けれど、彼女は彼の前でも私の前でもくだけた話し方も感情を出すことすらせず、いつも冷静だった。赤名さんのこんな声は初めて聞いた。


この会話は何? 約束って何? ふたりの時間ってどういうこと?
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