あおいぽりばけつ
良い香りを放ち私に笑いかける花を掌で握り潰した。気が付けば赤い実は無くなっていた。一歩下がって、時が流れる。
涙を堪えて下を見た。再び天を仰ごうと見上げて小さな実の芽生え。頬が緩む。

「遊戯台のお呼び出しを致します。四円パチンココーナー、八百四番台でご遊戯のお客様……」

大音量で流れる誰にも聞かれぬ一昔前の流行りの歌。店内に響く鉄球の流れる音。耳を劈くインカムの音。
様々な音に全てを掻き消され、マイク片手に狭いカウンターの中で私は今、生きている。

高柳さんの告白を断った事は瞬く間に社内に広がった。連休が明けて、高柳さんの移動が正式に発表されてから誰も何も言わなかったけれど皆何処かよそよそしくて。

ここに今の私の居場所はない。そう思ってしまった。

逃げる様に辞表を出した私は地元のパチンコ店でアルバイトをする日々を送っていた。

また、私は私の名前を手放しかけていた。

「いらっしゃいませ……」

差し出されたレシートを受け取ろうとして相手の手が引っ込んだ。
変な客に当たってしまったかと視線を上げて顔が引き攣る。

「……レシート、お預かり致します」

無理して笑うべきか悩んで、結局引き攣った笑みを浮かべて再び手を差し出した。あんなにもうるさかった様々な音が途切れて、声がクリアに響く。

「成人式以来じゃのう。……ここで働いちょったんか」

声を聞いて、泣いてしまいそうになった。
視線を落として胸元に付けた安っぽい名札を見て、今は仕事中だと心を落ち着かせた。精一杯の笑顔を浮かべて、私は言う。

「大景品が十二、小景品が八。余り玉は如何なさいますか?こちらと、こちら。あちらの大きなお菓子かお煙草と交換出来ますよ」

煙草の銘柄がずらりと並んだ表を押し付けると、ひょいと抜き取られ胸を射抜く笑みを向けられた。

「オネーサンは余り玉で交換できるんか?」

「残念ながら私共は景品では御座いません」

陸と会えなかった間、私は辛く苦しい日々を過ごしていた。あの出会った日から今日まで私は何も変わらずに陸を思い続けてきたの。なのに陸は、そんな軽口を言うようになったのかと、心が軋んだ。

適当に景品をビニールに突っ込み、まだ何か話したそうな陸に押し付けて手を挙げ後ろに並ぶ客を呼ぶ。長く話してしまえばまた私は彼に、陸に縋ってしまうから。

「お疲れ様でした」

日付が変わる頃、私の仕事は終わる。機械のようにただ、繰り返す日々。
家に帰り、眠り、また仕事。以前よりももっと単調で味気の無い毎日を消化していた。

それで良いと最近思い込むようにしていた。そうすれば、要らないものが頭に居座らなくなる。誰も私の心を乱さない。

「意外と終わるん遅いんじゃな」

「……もう閉店時間から大分経ってますよ。またの御来店お待ちしております」

暗闇に紛れた愛おしい三日月に向かい、冷たく言い放ち、従業員入口に佇む陸の脇を早足で過ぎ去った。

「クレームじゃ。ワシ、余り玉コレにせぇ言うちょらん」

がさりと音を鳴らすからつられて振り向いた。
作業服姿の陸が、笑ってビニールを掲げている。
胸が波立つ。今、陸に駆け寄ればまた私は名前を忘れて闇の中に転がり、また、泣く。

「そう言うのは……営業時間内にお願いします」

でも、泣いても良いと思ってしまった。

仕事が何時に終わるかなんて分からないだろうに、どうして待っていたの?
私を煩わしく思わないでいてくれるの?
また、陸に、縋ってもいいの?

陸が私の中から居なくなってどれ程経っただろう。止まったままの時が、陸目掛けて駆け出した瞬間、動き出した。

飛び付いて、懐かしい胸の鼓動に泣けてきた。わんわんといつかの夏の夜の様に、私は泣いた。

「お前、いっつも泣いちょるのう」

抱き締められることは無かった。ただ、静かに髪を撫でて陸が呟いた。

まだ知らない。この恋に終わりがある事を。ずっとずっと燃え盛ると信じているこの恋が。
それが案外近くにある事を、陸の胸の中で泣く私はまだ知らなかった。
ただ、確かにそこにある陸の温もりに震えて、静かに泣いた。
< 58 / 82 >

この作品をシェア

pagetop