あおいぽりばけつ
「やっぱりちぃーと、まだ海は早いかのう」

微かに香っていた潮の香り。嬉しさに意識が偏り、気付けば濃く鼻の辺りに潮風が漂う。

「最近仕事かホテルかのどっちかやったけん、……なんか癒されるわ」

暗く深い海を眺めて自然と声が出てしまう。一人ふらふらと海に吸い寄せられて砂の感触に気持ちが浮つき出した。
久し振りにこじ開けられた右の耳たぶの穴がじんじんと疼いて不思議な感じだ。
ガラスで足を切るのが怖かったが、ヒールで砂浜はどうにも歩きにくい。
「怪我すんぞ」と言う陸の言葉を無視して裸足になれば足の指を悪戯に擽る砂の感触に肩を竦めた。

「……のう、幸せか?」

ベージュの作業着に手を突っ込み、後ろの方で陸が突然呟いた。
成人式の日に、私が陸に問うた言葉。波の音に隠そうとしたのか、それはとても小さな声だった。

人並みの幸せか、と言う問ならばNO。
だけど私が今幸せか、と言う問ならばYESだ。

上手く答えられる自信が無くて聞こえぬ振りをしようとしたが、波に擽られて口が開く。

「幸せだよ」

振り返り、真っ直ぐに陸を見て私は微笑んだ。
その微笑みも声も、陸には届かなくていい。
だけどこうやって偶に自分に言い聞かせないと崩れてしまいそうになるのだ。

「ほう、か」

自分が問うた癖に、興味無さげにそう吐き捨ててどかりと砂浜に座り込んだ。
ぽっ、と蛍が飛んで、そして小さな天の川に変わる。

「火、貸して」

並んで座って、煙草を咥える。パチンコ屋で働き出して、私も煙草を偶に吸うようになっていた。一拍置いて渡されたライターは字が薄れて読みにくいが、多分どこかのラブホテルのアメニティ。

「陸はさ、他にいい人おるん?」

あの頃の弱い自分が聞けなかった事。歪に並んだ天に昇る天の川を眺めて私は問う。

「他もクソも、んなもんおらんわ」



幼い頃の思い出が今更、蘇る。
幼稚園の絵画の時間に描いた七夕の絵。
私の描いた絵だけ、紺の画用紙に紅い点が無数に広がっていた。
クラスメイトの画用紙にはピンクや黄色、水色、色とりどりの点があった。
「おりひめさまは、ひこぼしさまにあいたくて、たくさんないたの。このあかはおりひめさまのち。たくさんなくと、のどがきれちゃうから」
慌てた顔をして先生が新しい画用紙を私に手渡した。描き直せと、言われた。
クラスメイトは私の話を聞いて、「怖い」と泣いた。
教室に居る皆が、私を否定して、泣いた。
初めて、世の理不尽さに泣いた思い出。



陸の言葉の何処を切り取っても、私の影は無い。
心が千切れてしまいそうだ。
自ら聞いた問いの答えに絶望するなんて、馬鹿みたいだ。そう、誤魔化す為に鼻で笑ってみたけれど、空に無数の紅が散らばる。

「そう、じゃあ早く良い人みつけんとやね」

会う回数が増えたからと、何かが変わるはずがない。
ただの欲求を満たす相手なのだ。私は。

「お前は、あの成人式ん時の奴とはどうなん」

煙草の煙が目に染みる。視界が歪むのを隠せる。
目頭に手を当てて明るい声で話した。

「どうもないよ。好きだよって言われたから、私は好きじゃないよって、……そう答えた」

夢を見て、蹴散らされ、また夢に堕ちる。

不毛だと分かっていても、私はそのループから抜け出すことはもう無理なんだろう。
陸にかけられた魔法は、私の首をじわじわと絞めて行く。

「アホじゃな。周りの女がキャーキャー言う奴じゃったのに、勿体なぁの。顔も悪かぁ無かったで」

ぐっと喉が絞まる。陸が好きだから、陸が忘れられなかったから、言葉にしたくても出来なくて、ざざんと波の音だけが私に寄り添っている。

「……私、明日早番やから帰るね」

ポケット灰皿に煙草の燃えカスを押し込み立ち上がる。消し損ねたのか握り締めたポケット灰皿が熱い。

「……あ、そう」

これは誰が何と言おうと、恋なのだ。
興味無さげに引き止める事もせず私が三歩歩いたところで電話をし始める陸に、恋をしている。

「お〜!久し振りじゃのう、元気なんか?え?今?おう暇やで」

電話の相手が女か、誰かなんて、私の知った事ではない。
ただ、夜の海は驚く程に静かで、そんな海に響く馬鹿みたいな甲高い声は私の気持ちを逆撫でするだけなのは確か。

右耳の穴を潮風がほんの少しだけ噛んだ。
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