あおいぽりばけつ
「何ちんたらしとんじゃ。早う来いや」

なかなか来ないからか、戻って来たのだろう。私の腕を引いて自分の背中の後ろへやり、陸が言う。

「陸」

陸の背中越しに見えた高柳さんの顔は見たことが無い位に無表情。周りの同僚は陸の表情に驚き、あんなにも騒がしかったのに黙りこくってしまった。

「君は、伊織ちゃんの彼氏?」

陸の存在も、私と陸の関係も全てを知っているのに、そう問う高柳さんの心は分からない。だけど一度惚れた女の事をほっては置けないのだろうか。

高柳さんの言葉を聞いて陸の髪が揺れた。そして、低い声を吐き出す。その声を聞き、身体がぶるぶると大きく震え出した。

「あ?」

「余計なお世話かもしれんけど、こんな飲み屋街で伊織ちゃんを一人歩かせるんはちょっとどうかと思うんやけど」

ぺたりと貼り付けたような笑みで高柳さんが首を傾げた。陸の表情は伺えない。だけど此方を向く同僚の顔がみるみる内に青ざめて行くのだけは分かる。

「あんたに関係無いやろうが」

「伊織ちゃんを泣かすくらいならもう離れろよ」

「高柳さんっ……」

私の言葉よりも先に、背中が動いた。高柳さんのワイシャツの襟あたりを掴み近寄る陸と、微動だにしない高柳さん。
震える手で陸の作業着を掴み、涙が溢れた。掴んでも振りほどかれて、何度か空を掴んだ。

「ねぇ……ねぇ陸止めてって、ねぇ!!」

「……っ離せや」

「伊織ちゃん、これが伊織ちゃんの選んだ幸せ?こんなんじゃ俺諦めれんよ。ずっと泣いてまうやん」

周りは悲鳴を上げるだけ。誰も止めやしない。見えない火花に目が潰れてしまいそうだ。
陸の肩越しに必死に言葉を投げ掛けてくる高柳さんの目はまだ、優しさを孕んでいる。

「あいつに勝手に話しかけんなや」

そう言って鳴るのは拳が何かを殴る音。悲鳴が街に水を打つ。しんと静まり返る辺り、そして群がる人集り。
殴る音がして、何かが崩れる音がした。滲む視界を必死に拭い、汚い現実を見て、また視界が滲む。
高柳さんに馬乗りになり二発、三発と殴る陸の背中を見て身体が固まった。周りの「警察」と言うワードでやっと弾かれるように陸目掛けて走り出し、縋る。

「ねぇ、やだ、やだ……陸、やめて、本当に、陸お願いやから、やめて……」

高柳さんの言う通り、陸と会うために節約と称して食事を抜いて痩せてしまった私では、どうにも止められない。
薄らと血が滲む陸の拳をどうにか手に掴み、涙を流しながら身体を割り入れた。

「陸、ねぇ陸もう止めよ……本当に」

「うるせぇ、離せや!!」

振り払われた拍子に尻餅をついた。訳が分からなくて痛みが全身を走って、ポロポロと大粒の涙が転がり落ちる。

「伊織ちゃんっ!!」

黙って殴り続けられていた高柳さんが体を動かすよりも先に、私にぶわりと影が落ちる。驚いて目を瞑るが何も無い。ゆっくりと瞳を開けると、目を丸くした陸が私の顔を覗き込んでいた。

「すまん……大丈夫か……」

私の手を取り立ち上がらせて、陸が血のついた手で地面に散らばった荷物を拾い上げた。

「……早う消えろや」

遠くに転がったリップを取りながら陸が高柳さんに凄んだ。口に手を当てたまま呆然とする同僚達目掛けて「見せもん違うぞ」と言い放つ陸を睨み、そしてとても悲しそうな顔を浮かべて高柳さんが私を見た。

「これで、ほんまにええん……」

捨てられた子犬の様な目で私を見て、問う。
あれだけ想ってくれて、笑い合って別れたのに、こんな事になってしまって高柳さんの目を真っ直ぐ見れなかった。鞄に入れていたハンカチも、絆創膏も、差し出す権利はどこにも無い。

「伊織ちゃんっ……」

このままこの場を去れば、きっと高柳さんの心にずっと残る黒い染みを付けてしまうだろう。
だけど何も言えない。何も言う権利が無い。
高柳さんにあげた私の心、赤い薔薇のキーホルダーが携帯にぶら下がり揺れている。それを見て、私は謝る事しか出来なかった。

「こっち!早く来て!」

野次馬がそう叫び、ここに長居はしてられないと私は陸の手をキツく握り小走りに去る。
聞こえない程の声で、一言残して。意味の無い、一言を。

「ごめんなさい」

ヒールが邪魔くさい。脱いで手に持ち走り出した。陸よりも先に、走る。握った手は離さずに。
陸の手は暖かくて、何故か更に泣けてしまう。

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