君の手が道しるべ
「太田様が、なにかつらいことがあって、今は資産運用の話を聞くような状況にないんじゃないかって気がしたんです。何かを思い出して、悲しい気分になってるように見えたので……太田様がまた話を聞いてもいいと思ってくださったなら、そのときにお伺いしようと思いました。まあ、大倉主査には、それじゃダメだって怒られましたけど」

「人聞き悪いこと言わないでくださいよ。僕、怒ってませんよ」

 大倉主査の反論は聞こえないふりをして、私は太田さんに言った。

「だから、ダメなんです、私。大倉主査には言いましたけど……たぶん、今の仕事には向いてないんです。求められている働きができないので」

「それで、退職を考えているんですね?」

 太田さんの口調はどこまでも優しく、暖かく、誠実だった。

「ええ。――それは逃げだとお思いになるでしょうけど」

「そんなことはありませんよ。あなたは、人の心の深いところを察することができる。人の心に寄り添うことができる。それは、仕事で大口契約をいくつも成立させることより、ずっと大切なことです。いや、そもそも、そういう優しさがなければ、人とのつながりは生まれない。つながりが生まれなければ、仕事だって成り立っては行かないと私は思いますよ」

 そして、横に座っていた大倉主査を見てうなずいた。

「悠介が言ったとおりの人だ。あなたの優しさは、悠介にとって欠けているもの。残念ながらうちの孫は、そういう、人と人との心のふれあいが小さい頃から苦手でしてね。私にしてみればよく今まで会社勤めができたと思うくらいですが」

「……」

「でも最近、今の支店に配属になって以来、悠介がいつになく楽しそうにしていたもので、私も気になっていたんですよ。その原因はあなただった」

 太田さんは静かなまなざしを私に向け、ゆっくりと言った。

「あとは、あなたがご自分で考えてください。――それから」

「……はい?」

「先日の書類、持ってきていますか?」

 太田さんの隣で、大倉主査がふふっと笑うのが聞こえた。
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