君の手が道しるべ
大倉主査が待ち合わせの店に現れたのは、約束の時刻をちょうど10分過ぎたときだった。
 
 どこから走ってきたのか、はあはあと息を切らせている。

「すみません、僕から呼び出したのに、遅刻してしまって」

 そう言って私の向かいの席に座ると、ぺこりと頭を下げた。

 いつも嫌味なほど冷静沈着な大倉主査には似合わないその様子に、私は意外な思いで彼を見た。

「仕事忙しいんでしょ、気にしないで」私が顔の前で手をひらひらさせると、大倉主査は気まずそうに言った。

「いえ、まあ、遅刻ももちろんお詫びすべき事なんですが……」そこで、一瞬言葉を途切れさせる。「話したいのは、そのことじゃないんです」

「池田産業さんの件なら、気にしてないから」

 先回りして、わざと明るく言う。けれども大倉主査の顔色はいっこうにさえないままだった。

「そういうわけには、いきませんから」

 きっぱりと言い切って、運ばれてきた水をグラス半分一気に飲んでしまう。

「本当に、気にしてないから。だから大倉主査も気にしないで」

「いえ」大倉主査が暗い目で私を見る。「あれは、永瀬調査役の案件です。——まさか、藤柳さんが横取りするなんて思わなくて」

「それは大倉主査の責任じゃないよ。それに、誰が取ったって支店の数字には変わりないんだし、いいじゃない、ちゃんと獲得になっているんだから」

「……でも」大倉主査は納得していないらしい。「ルールってものがある。ルールを無視して数字を取っても、そういう売り方をしている限り、お客様からの信頼は得られないでしょう」

 生真面目にそう話す大倉主査を見ながら、私はふっと笑みを浮かべた。

 その笑みがどれだけ自嘲的か、鏡を見なくてもわかる。

 いやな顔してるんだろうな、と思うとなおさら笑えてくるのが不思議だった。

「……大倉主査は、ちゃんと育ってきたんだね」

 私の言葉が唐突だったのだろう。
 きょとんとした顔で、大倉主査は私を見た。

「……どういうことですか? 意味がわかりません」

「ちゃんと育ってきたんだね。ルールを守って、信頼感を大切にして、すくすくと」

 彼の目元がかすかに動く。疑いの色がにじんだのを、私は見逃さなかった。

「永瀬調査役……それはどういう……」

「大倉主査は、私とちがう」

 ついにこぼれてしまった言葉は、一度すべりだすともう止められなかった。

「私は、あなたみたいに育ってない。あなたみたいに、自分に自信もないし、あなたみたいに性格がまっすぐじゃない。——あなたを好きになる資格がない」

 大倉主査は身動きせず、じっと私を見つめている。

「だから——」

 なぜか、視界がぼんやりにじんだ。なぜ、私は泣いているのだろう。

「あなたとは、結婚できません」

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