君の手が道しるべ
半年前、ある日の営業終了後に臨時の夕礼が開かれた。
内容は大倉主査の退職の件だった。
当然ながら先に知っていた私は驚きはしなかったのだけど、初耳だった梨花は夕礼後に大倉主査に駆け寄ると、いつものように甘ったるい声で言ったのだ。
「えーん、もう、さみしすぎますよー! どうして辞めちゃうんですかぁ~」
周りの女子職員の冷たい視線もお構いなしの、梨花節が炸裂する。
毎度の事ながら、これはもう尊敬に値するなぁと感心していると、支店長の横に立っていた大倉主査がにっこり笑った。
「家業を継ぐ約束があるから、そのための修行もしなくちゃならなくてね。来年にはNYに移る予定だから、藤柳さんも遊びに来るといいよ」
「えーっ、すごい! NYって、かっこいい~! 行きます! 梨花、絶対行きますからね! 案内してくださいねっ」
ハンター梨花の必殺技、上目遣いが炸裂する。
その瞬間、大倉主査の目に、なにか面白がっているような、企んでいるような光が躍った。一瞬のことだから、たぶん、私以外気づいた人はいないはずだ。
大倉主査は穏やかな笑顔のまま、言った。
「そうだね。もし遊びに来たら、僕と永瀬調査役でNYを案内するよ」
おそらく、その瞬間の梨花の顔を、私は一生忘れないと思う。
いつも取り澄まして男に媚びる梨花の顔が、まるで目の前に幽霊でも現れたのかと思うくらいに歪んだのだ。
顔の筋肉が一気に弛緩して、その後、あるべき位置に戻らずに、とんでもなく変形した、という感じ。いつも気取った梨花の顔がここまで崩れるとは想像もできなかった。
「そ……それ、どういう……」
青ざめ、息も絶え絶えにつぶやく梨花に、大倉主査はあっさりと言い放った。
「あ、そっか、まだ公表してなかったか。僕たち、結婚するから、調査役もあとからNY来るんだよ。で、一緒に住むの」
その言葉に、その場にいた支店メンバーがどっと沸き立った。すでに知っていた支店長と副支店長、そして栞ちゃんは、面白がっているような表情で私たちを見ている。
その背後で、文字通り腰が抜けたように床に座り込む梨花を見た瞬間、私は内心笑ってしまった。性格悪いかもしれないけど、「溜飲が下がる」ってこういうことなんだと心の底から思った。
「け……結婚……大倉主査が……調査役と……」
よほどショックだったらしく、梨花は壊れたプレーヤーのようにそれだけをつぶやいている。
結婚するしないは勝負じゃない。それはわかっている。
でも、あのバーの薄暗い空間で、梨花が私に吐いた暴言が宣戦布告だったとしたら、今日の結婚発表は、まさしく起死回生のカウンターパンチだったと思う。
そのパンチがよほど効いたのか、以来、梨花は私を避けるようになった。
露骨な敵意を感じることはあまりなく、表面上の雰囲気はまあまあ穏やかではあったが、どちらかというと梨花は私の存在自体を無視していたので衝突してもめるようなこともなかった。
おかげで運用課は毎日平和に時間が過ぎていき、ついに私の退職の日がやってきたのだった。
内容は大倉主査の退職の件だった。
当然ながら先に知っていた私は驚きはしなかったのだけど、初耳だった梨花は夕礼後に大倉主査に駆け寄ると、いつものように甘ったるい声で言ったのだ。
「えーん、もう、さみしすぎますよー! どうして辞めちゃうんですかぁ~」
周りの女子職員の冷たい視線もお構いなしの、梨花節が炸裂する。
毎度の事ながら、これはもう尊敬に値するなぁと感心していると、支店長の横に立っていた大倉主査がにっこり笑った。
「家業を継ぐ約束があるから、そのための修行もしなくちゃならなくてね。来年にはNYに移る予定だから、藤柳さんも遊びに来るといいよ」
「えーっ、すごい! NYって、かっこいい~! 行きます! 梨花、絶対行きますからね! 案内してくださいねっ」
ハンター梨花の必殺技、上目遣いが炸裂する。
その瞬間、大倉主査の目に、なにか面白がっているような、企んでいるような光が躍った。一瞬のことだから、たぶん、私以外気づいた人はいないはずだ。
大倉主査は穏やかな笑顔のまま、言った。
「そうだね。もし遊びに来たら、僕と永瀬調査役でNYを案内するよ」
おそらく、その瞬間の梨花の顔を、私は一生忘れないと思う。
いつも取り澄まして男に媚びる梨花の顔が、まるで目の前に幽霊でも現れたのかと思うくらいに歪んだのだ。
顔の筋肉が一気に弛緩して、その後、あるべき位置に戻らずに、とんでもなく変形した、という感じ。いつも気取った梨花の顔がここまで崩れるとは想像もできなかった。
「そ……それ、どういう……」
青ざめ、息も絶え絶えにつぶやく梨花に、大倉主査はあっさりと言い放った。
「あ、そっか、まだ公表してなかったか。僕たち、結婚するから、調査役もあとからNY来るんだよ。で、一緒に住むの」
その言葉に、その場にいた支店メンバーがどっと沸き立った。すでに知っていた支店長と副支店長、そして栞ちゃんは、面白がっているような表情で私たちを見ている。
その背後で、文字通り腰が抜けたように床に座り込む梨花を見た瞬間、私は内心笑ってしまった。性格悪いかもしれないけど、「溜飲が下がる」ってこういうことなんだと心の底から思った。
「け……結婚……大倉主査が……調査役と……」
よほどショックだったらしく、梨花は壊れたプレーヤーのようにそれだけをつぶやいている。
結婚するしないは勝負じゃない。それはわかっている。
でも、あのバーの薄暗い空間で、梨花が私に吐いた暴言が宣戦布告だったとしたら、今日の結婚発表は、まさしく起死回生のカウンターパンチだったと思う。
そのパンチがよほど効いたのか、以来、梨花は私を避けるようになった。
露骨な敵意を感じることはあまりなく、表面上の雰囲気はまあまあ穏やかではあったが、どちらかというと梨花は私の存在自体を無視していたので衝突してもめるようなこともなかった。
おかげで運用課は毎日平和に時間が過ぎていき、ついに私の退職の日がやってきたのだった。